昨日から、旅仕事の切れ目で、二週間も自宅(仙台)で生活できる期間に入りました。夏だというのに今、仙台は肌寒いです。
さて、旅の日々でいろんなものを見て、いろんな場面に遭遇して、ふと思うことがあります。それを少し書きます。
他者に対してアドバイス(コメントや批判)をする、ということが誰しもあります。
他者のことは人は良く見えるもので、なかなか耳の痛いことを、すっと提示できます。良薬は口に苦し。
さて、自分自身のこと。
自分のこととなると人は途端に良く見えなくなります。
そんな中で日々いろんな未熟さを抱えながら生きていくわけですが、たまたま、過去に自分が発したアドバイスを何かの加減で目にすることがあります。昔のメールやブログなど。
そこには、今の自分の行為に対して処方されたかのような、苦い薬、もあったりします。
それを、「ふん、うるさいな。そんなこと知ったことか!」という無意識の防御反応がおこったり。
また、「あー、これは耳が痛い。たしかにその通り。・・・改善するか」と、省(かえり)みる思考がおこったり。
この時、後者を受け止めることができる人間でありたい、と私は思います。
さて、話は次のブロックに進みます。
他者を反面教師として己を律することを指す言葉がありますね。
「他山の石」
(=よその山から出た、つまらない石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の誤った言行。(出典:大辞泉))
この”タザンノイシ”にはチャンスが二度ある、と思いました。
一度目のチャンスは、他者の誤った言動を目にしたその時。
これは、いかにもわかりやすい。
二度目のチャンスは、他者の誤った言動を目にした時に行った、批判(それの良い点・悪い点を判じる)的コメントを、時間を超えて目にした時。
これは、なかなか難しい。
というのも、一度目の方は自分の行いがまだ誤っていない段階であり、「将来の下策を未然に回避する」だけのことですが、二度目の方は「現在の下策を、ダメ出しされている」ことですので。
(話を元の流れに戻します。)
このことから私は思うのです。
「二度目のチャンスを活かせる(苦い薬をすっと飲める)しなやかな人格を、いつも持っていなくてはだめだ。」と。
それから
「他者の誤った言動を、愚痴的に非難することには、発散という短期的な効用しかない。
そこから教訓を抽出する。自分ならどうすかを熟慮し上策を生み出す。それは未来の自分への薬になる」と。
人は歳ふる毎に、叱られることが減ります。
その一方で、人に何かを指示したり、意見を言う時間が増えます。
そうして、健全な人にも、心のぜい肉が増えます。
かつて上層部の愚策を批判した若者が、出世し下の人たちから同じ誹り(そしり)をうける、
そんなことは、ごく自然に起き、繰り返されてきました。
だから、二度目のチャンス、を使うべきです。
先ゆく誰かに投げた批判は、いずれ時間を超えて戻ってくる。
ブーメランとしてぶつかってくる。
その二度目のチャンスを活かすには、何かに出会ったら教訓を抽出する。
その苦い薬は、「現在の他者」に処方するのではなく、「未来の自分」のために。
そして、すっかりそんなことも忘れて仕事しているときに、偶然掘り起こした苦い薬。それにきちんと正対できるように、人格のしなやかさを保つ。そういうことが、二度目のチャンスを活かすためのコツだと思うのです。
終わりに)
2016年の今、私は42歳で、この年になってようやく、世界の偉人たちの伝記を読んでいます。(クリエイターに限ればその創造の営みをするために手記や伝記を研究対象としてこれまでも読んでいましたが、全領域に対しては読んでおらず、今になって、ようやく、といったところです。)
世を収めた偉人の人生の終わりごろというのは、幸福のうちに終わることはすくなく、世を開き、覇者に到達するまでの高邁な姿勢は、その後変わっていきます。彼らのような人生と、我々凡人とは比べるべくもありませんが、ただ、そんなすごい人でも陥る「年長者の罠」があり、そのことから何をか学ぶことはできます。
世の中の良いものも悪いものもたくさん見、学びと教訓を得て、自分の未来の道の上にブーメランとして突き立てておけば、崖から滑り落ちそうなときの足掛かりになる。
そんな気がします。
余談)
昨日から久々に、仙台の書斎に長くいられる期間でしたので、今朝は筆ならしのために、体系化されていない記憶を文章として紡ぎ出す練習として、書きつけてみました。およそ1.5時間。 考え考え紡ぎ出す草稿文章はだいだいこの程度です。話が長いし割れながら整理されていないと感じます。日々もっと、文章力も磨かなくてはいけないし、英語もやらなくちゃ、と思います。
posted by 石井力重 at 10:39
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