加藤昌治さんと行ってきた往復書簡が、いよいよラスト2となりまして、前回私のはなったでっかいボールをしっかり返してくださいました。
私から投げた質問は「この先20年で、社会から求められていくアイデア発想法の本は(あるいは、広くカテゴリーを切りなおして、創造技法の本は)、どのようなものになるんでしょうか。」でした。
加藤さんの答えを転載します。
「単行本からテキストへ」の流れが大きくなるといいな、と思ってます。
書籍って、おそらく3パターンあって、
1)学問として研究された成果をまとめた一冊(学術書/論文的な)
2)厳密には学問までは届いていないが、ある程度の網羅性、汎用性がある一冊(入門書的な)
3)個人や少人数の体験をまとめた一冊
の3種類。
3番目の個人メソッドが劣っていることはなく、本質をズバリ突いていることも多くあると思います。著者が有名人だから、だけが売れる理由でないはずです。
だから、どの種類であってもよいのですが、これらが単行本、文庫本といった、一般的な書籍の形態をとっている以上、読んだ後で行動するかどうか? はあくまでも読み手の判断にゆだねられている構造になります。
好い本は、人を動かすだけの力を持っているはずですが、そうした「性善説」だけに頼っている環境では、総体・全体としてのアイデア力は向上して行かない、あるいは向上するスピードがそれほど速くはない、と考えます。
この先20年経ったときに、世界中のアイデア発想力を上げていくためには、性善説だけの一本足打法に寄りかからない学びの構造、習得の構造があると素敵です。
イメージは九九算。子どもの頃に強制的にかもしれませんが訓練を積んだからこそ、いま暗算がある程度できるようになっている。インドでしたか、九九算ならぬ20×20までやるのは?
それと同じことで、創造技法も「技」として使えるレベルまで「常識化」することができたら、アイデア力ってもっともっと増していくんだと思っています。
補足すると、「技化すればいいアイデアが出る」ではありません。
アイデアを出すこと自体が苦じゃなくなれば、アイデアの数がもっと増える、その中には好いアイデアが含まれる可能性が高くなる、って流れを想定しています。
その意味で、単行本からテキストへ。読み物じゃなくて「やる物」。ないしは「使うもの/使い倒すもの」。
書き込みだらけで、端々が折れ曲がっているような? 本として完結してなくてOKで、ドリルみたいなものかもしれません。あるいはペーパーの集合で、綴じてすらないかもですね。
使い終わってから何年かしたら、再び読む気にはならないと思うんですね。でも大事に取っておこうかな? それとも、もう全部アタマに入っているから要らないや! と思うような。そんな感じな「もん」になるといいなあ〜と妄想しています。
なるほど、発想法の本というのは、本(読み物)じゃなくなって「やるもの」「使うもの」になるんだ、とうんうん頷きながら読みました。
- ”書籍の形態をとっている以上、読んだ後で行動するかどうか? はあくまでも読み手の判断にゆだねられている”
- ”この先20年経ったときに、世界中のアイデア発想力を上げていくためには、性善説だけの一本足打法に寄りかからない学びの構造、習得の構造があると素敵”
- ”イメージは九九算。子どもの頃に強制的にかもしれませんが訓練を積んだからこそ、いま暗算がある程度できる"
- "創造技法も「技」として使えるレベルまで「常識化」することができたら、アイデア力ってもっともっと増していく"
というわけですが、加えてなるほど、と思ったのが次の下りです。
- ”補足すると、「技化すればいいアイデアが出る」ではありません。アイデアを出すこと自体が苦じゃなくなれば、アイデアの数がもっと増える、その中には好いアイデアが含まれる可能性が高くなる、って流れを想定しています。”
創造のための足腰を作る、基本所作や武道でいう型を教える、ということの先に、独創の水準に至る。
結論となるものの一つはそういうものでしょうね。
さて、そうなってくると「本を書く」ことは、書く、というのとは変わってきます。Bookという概念だけが残って、物質レベルでは紙束ではない。いうなれば、NewBook、というものが出てくる。ITよりなら、iBookとかって、言いたいところですが、生身の、リアル空間の、身体行動に刷り込むような、そういうものなので「i」じゃないんじゃないかとも思います。
じゃ、なに?
それはたぶん、「p」か「Ex」じゃないかな、と。Practice。あるいは、Excution。
Ex-だと、外に、という語感がいいでしょうね。ただ、すでに「Eメール」のようにEが消費されているので、ちょっと外したいところ。
仮に、pBook、という「実践のための、バインドされたナレッジ群」があるならば、それを想像してみると面白そうです。
おっと、そうすると・・・、思い浮かぶことがあります。
この往復書簡トークに合いの手を入れてくれた倉下さんのブログの記載内容が、とんとんと頭をノックしてきます。引用します。
一つめは、ウェアブル端末などのセンサーの活用。特に脳の状態を観察し、利用者にフィードバックを与えることができれば、発想技法に強いインパクトが生じる可能性があります。
二つめは、あたらしいディスプレイの可能性。Microsoftが打ち出してきたVRグラスの「HoloLens」は、私たちに狭いディスプレイからの解放をもたらしてくれます。
私が常々iPadで付箋系ソフトを使っていて感じるのが「こんな小さい画面でやってられるか!」というものです。逆に、その点さえ除けば、指で操作できるデジタルの付箋ツールはすごく便利なのです。もし、視界にある壁を付箋ボードとして利用できるなら、それはアナログでもデジタルでもない__といってもデジタルなわけですが__新種のアイデア発想体験となるでしょう。
ここから、心象風景の中に、一気に視界がハイテク方面に開けてきます。
発想の現場で、思考状態に即したものを「pBook」が提示してくれる、発想ガイドステップを提示してくれる、なんていうシーンも想起できます。
あるいは、脳波方面から、対話機能に技術ベースをずらしますが、記憶の中でぼんやり思い出せるあの情報ってなんだっけ、ほら**みたいな感じのさ、ってつぶやいただけで過去の紙面候補をポップアップしてくれる「pBook」もありでしょう。
また、最近、見やすそうなヘッドマウントディスプレイが出てきましたが、動きの中で、思考をガイドする情報表示方法が急速に発展していくと、ブレインストーミング中に、あのヘッドマウントディスプレイをかけて、全身を使ってわいわいブレストしつつも発想法をどんどん使って、アイデアの水準を上げていくシーンも想起できます。
「たとえばチェスの例だと、世界チャンピオンよりもコンピュータが強くなってチェスリーグの存在が危ぶまれたとき、「アドバンスチェス」という発想が出てきました。コンピュータと人間のチームがチェスをするというものです。両者の力が合わさるので、人間よりも、コンピュータよりも強くなる。そこがポイントです。「機械だけでは実現できないし、人間だけでもできない」という、新しく、そしてよりよい関係がつくれるわけです。」
(引用の引用で恐縮です、引用ここまで)
この点は、示唆深いです。
ビッグデータという変動しつづけるものを固定化した書籍コンテンツが自在に使いこなし続ける方法があるだろうか、あったらおもしろいな、と。「pBook」がそういうものであるならば、相当にオントロジー的な、メタデータのメタ処理といいますか、そういう汎関数みたいなものを内に多く取り込んだ姿をしているでしょう。ここまで来ると、「pBook」は、特定知識セットを抱きかかえた人工知能のようなものに近い気もします。
ナイトライダーのKitのように、カーチェイスに関する知識を膨大に持っていて、マイケルと対話しながらよりよい選択肢を提示したり、その戦術実行の一部を補ったり。
アイデアワークに特化したKit、いうなればそういうスタイルまで、想起しえます。
・・・という話は、らした先生(倉下さん)もそのあとに続けて書いていますね。
しかも、それは「それとなく」行われるはずです。コンピュータが私たちの前から姿を消す(≒見えなくなる)ように、「アドバンス発想技法」も、見えないところに潜り込んでいくでしょう。
さいごに(※中見出し)
最終的に「発想技法の本」のいきつくところは、消滅という名の停留所です。しかしそれは足踏みすることを意味してはいません。むしろ、そこからバスを乗り換えるのです。
(引用ここまで。)
加藤さんの記事が出るよりずっと早く、倉下さんはブログを書いています。加藤さんの見つめる未来像も、倉下さんのも、同じ姿を結像していきます。
ビジネス書はすべからく、身体知に寄り添う。
そういう未来になるのもしれませんね。
一方で、古典文学などは、そういう方面にはいかないので、Book Classic、という「今の本」に似たものも残っていくのだろうと思います。
読むことを楽しむ人には、Book Classic
知識を使いたい人には、pBook
そんな流れ。
だとしたら、あえて「読むことを楽しむ人のためのアイデアの本」というものも、再びあり得るのでしょう。それはたぶん、孤独を強いられるクリエーターのマインドの気持ちを強化してくれるような本でしょう。
でも、それならそれで、その本には、作者の肉声での記録がついていたり、簡単な対話をしてくれる機能がついている方がさらによさそうなので、やっぱりちょっと「pBook」寄りになるのかもしれませんね、今よりも。
・・・
さて、さて。
加藤さんと続けてきた「往復書簡」いよいよ、次がラスト書簡。石井のターンで終わります。
加藤さんの最後のボールを受け止めます。
「単行本からテキストへ」なんて云ったココロは、「選択肢としてのアイデアをたくさん出す、という行為を至って普通の、誰にでもできる習慣にしたい」気持ちの発露からでした。
石井さん、どうしたら「習慣化」されるんでしょうか???
2015年7月21日
かとうまさはる拝
(引用ここまで)
おおぅ、、、。最後の締めくくりは「習慣化するには」、ですね。
これ、アイデア発想法の研修やワークをしていく中での永遠の課題です。ある事例では相当に継続率のいい発想手法ですら翌年の継続率は、11%だったそうです。いい水準でそうなので、平均でいえば一年後継続使用率は、数%でしょう。
このボール、大事に温めて、秋ぐらいまで全国を回りながら、考えてみます。