最適化問題は、ある量を最大化しようとして、構成する要素が内包するもろもろの変数の値を突き止めていくことです。
「目的関数」というのは、この「最大化しようとする量」のことです。
純粋な数学や物理の問題であっても、この目的関数は、必ずし、二次関数のような線型方程式で表現されるわけではありません。
変数の中には、コインの裏表、のようなものもありますから。
さて、本題。
ここからは話を、人文の世界に。
人生の目的関数
人生の目的は何でしょうか。
お金?楽しい娯楽?食事?
あらゆる人についてそれを一言でいえば「幸せ」でしょう。
近似的に「お金の増加=幸せの増加」と見る人もいるので「お金」と応える人もいるでしょう。
ただ、年収はある一定ラインを超えると、年収の増加と人生の良さの増加は単純な比例ではなくなります。
幸せを学術的に研究する研究者も世の中にはいまして、定量的に、1000万円※を超えるあたりからは、「年収∝幸せの度合い」という比例関係はなくなる、と。
(※ 研究文献はドル単位なので、円表記上のザックリ数字ですが。)
もちろん、研究された結果だからそれが絶対とは言えません。
データ分析するには可測量でなければならないので、幸せというのを何らかの量で代替えして別の量でみたり、幸せの感受に相当する質問を設定し本人の感覚をリッカートスケールで回答してもらうなど、特定のアプローチで調べるわけですが、それが将来、否定される可能性がないわけではありません。
さらに言えば、幸せ、とか、創造性のような、統合的で複雑な営みで、曖昧だけれども皆が把握している概念というのは研究が難しいものです。研究には、さまざまな反論や別の研究アプローチによる別の結果もたいていはあります。上記の1000万円というのもまた、1ケタぐらいの違いをもった研究もあります。
こういう「捉えどころのない量を最大化しようとすると、やりにくい」ので、ついついわかりやすい「収入」とか「労働時間の短さ」とか「ライブに行く回数」とか、そういう即物で考えてしまおうとします。
ですが、それは一足飛びに結論をだして、大事なことを欠いています。
その人が、人生において、本当に最大化しようとしているもの。
人生の「目的関数」。
最適化問題(ある量を最大化しよう)という行為は、人生のあらゆる局面、あらゆる時間的尺度でわれわれの心に立ち上がってきます。
互いに矛盾するものもあります。
たとえ話。
旅先で興味深いミュージアムに入ったら、「できるだけたくさん、興味深いものを見たい」という目的関数が立ち上がってきます。
また、「移動の電車はできるだけ、体力を使いたくない」という目的関数も別にあります。
昼過ぎの電車はすいていますが、夕方の列車は混んでいます。
この2つの目的関数は、矛盾します。
いくつも湧き上がってくるものを全部抱えて自分という人間が生きています。
人生がなんども巻き戻せて同じ一日を仮に過ごせるなら、いろんなパターンのその一日をすごすと、「ミュージアムを見たい欲求は3ぐらい叶える」「電車で楽に、は7ぐらい叶える」と目的関数が最大化するのだ、分かります。
ただ、我々は、最上位にある目的関数(たぶん、幸せ)をはっきりと関数で定義し、全変数の値を算出し、その上で正確に行動する、なんていうことは、現実にはできません。
ただ、自分の声に耳を傾けていけば、経験を重ねることで分かるようになったりしもします。
自分の選択した行動がどれぐらい自分を幸せにしたか、ということはだんだん蓄積されていきます。
そして、行動の精度が上がります。
関数そのものはわかりませんが、だんだんと、自分の根底にある願いをかなえるように行動できるようになります。(なれるように人もいます、というべきでしょう)
一見、非合理的な意思決定や無駄に見える行動をしている人がいますが、その人の最上位にある目的関数を最大化することに則ったものであるならば、実は、最適化問題の合理的行動なわけです。
迷いが芽生えるのは良いこと
1.目的関数というものがある。
2.人生はたぶん、統合的な要素の最大化が、目的関数になっているはず。
3.捉えにくい量は扱いにくいので、近似的な即物的なもので表現してしまいがち。
4.その近似的ファクターもあるレンジまでいくと比例関係から落ちてしまうこと。
そうなってくると、人は迷います。
「それ(即物的ななにか)を追い求めたかったんだっけ?」と。
そこで、
5.自分が、最大化しようとしている目的関数はなんであるのか、を見直す。
そうすると、乗っていたレールを飛び出して、軌道修正をすることもあります。
(ライフスタイルやワークスタイルを変えるケース)
最大化しようとする目的関数を、現在の道の上に「再設定する」ケースも出てきます。
(当初の最上位の目的関数とは別の目的関数がより上位になるケース。)
迷いが生じるのは、相関性のある即物的な量の増加に取り組めばよいフェーズを卒業しかかっている時なのだろうと思います。
才人のスランプ
スランプの時期にいる才能ある人に、私はこう言っています。
「スランプというのは、自分の心が『このステージはやり尽くした。そろそろ次のステージに上がるべき時だよ』とシグナルを送ってきていることだと思いますよ」と。
ゲーテの言葉があります。
「Es irrt der Mensch so lang er strebt.」
森鴎外の翻訳、などもありますが、よりヒューマンな作家、手塚治虫の日本語訳を添えておきます。
「人間は努力するかぎり迷うものだ」
努力をしないなら、即物的な目的関数で近似できるレンジを行ったり来たりして一生は終わる。
しかし、努力の人はいずれ、相関性のあるレンジの端っこぐらいまで行く。
それが、人によっては、悩み、だったり、スランプだったり、不調だったり、虚無感として、心に登場するのだろうとおもいます。
努力する人は、迷うもの。
迷いは進歩の途上にあることの証。
そう思って、目的関数が本当は何だったのかを見直して、道を行くべきなのでしょう。
石井の見ている風景
私は、いつも思います。
”行くほどに、道半ば。”
進むほど、この道の先に見える道はもっともっと遠いところまで見えてきます。
1つ分かると10個分からないことが出てくる。
芸も、学も、商いも、人も、そういうものなのかもしれません。