寒い書斎について、コーヒーを入れながら、ふと、思い浮かんだことがありました。
多くの人は損をしないように生きようとします。
が、損をしないぞと意固地になっている時には、持っていたはずの豊かな可能性を「損なっていること」(大損)に気が付かないものかもしれません。
もうすこし、詳しく書いてみます。
まず、誰しも人は進んでいく道の分岐点で、目の間に広がる複数の道(選択肢)から1つを選びます。
((なお、脱線の話として書くならば、何も選ばないのは「選ばないという道」に、選択肢があることに気が付かないのは「環境のランダムさによって目の前に登場する道」を歩んでいます。 ・・・話を戻します。))
たとえば、虚心坦懐に見れば目の前に選択肢が3つあったとして、ある人は損をしないぞという頭で選択肢群を見つめてみると、そのうち1つか2つが、「選択はあり得ない」もの(つまり、ちょっとでも損するもの)であり、その選択肢は検討の余地なく削られます。
しかし、そういう狭めた中からの選択ばかりをするすることによって、損なっている豊かな時間もあります。
それは傍から見れば簡単にわかることだったりします。
しかし、その「損はしないぞと心の手足を踏んばらせている」心理状態の中に立っている人は、それはえてして見てないものです。
そして、これはほとんどの人に、めぐってくるかもしれないことのようです。
”意地悪、悲観的、他者を敵だと思う気持ち。”そういうものが人間にはあり、そういうものをのさばらせずに、よく生きようしていますが、たとえお坊さんのような人でも煩悩の内、ある種のものはどれほどの修行を積んでも消せないといいますので、我々凡人においては当然煩悩で表現される心の中のいろんな黒い小人が見え隠れして、しかしそれをのさばらせず、インテリジェンスと意思の力によって、良い人格を維持している。・・・モデル的には人間の心の営みをそういう風にも理解できるなぁと私は思います。
でも、そういう構造をもった人間という知的存在を不完全だともおもいません。
煩悩を御しながらよりよく生きる知的存在だから人は人間くさくドラマやトラブルや達成に満ちて生きていけるわけで、もし完全なる煩悩レスの知的存在だけで構成された惑星があればそこには、なにもドラマもトラブルもないでしょう。粛々とした積み上げとある時点の均衡に辿り着くでしょうけれどその惑星はおもしろいのだろうか、と。
話が思考実験的になり始めましたが、一気に主題に戻します。
人間の認知能力は限界があります。どういう場所に立っているのであれ、そこから見た景色とそこから想像できる範疇を人は「全世界」として認識しています。ある意味、どこに立っていようとも、視野狭窄ではあるわけです。
で、どうせ、どこかの視座に立ったうえで視野狭窄に陥るならば、人生の肯定的な可能性のあたりに立ってそのあたりを見つめ続けるようなタイプの視野狭窄になったほうが、人は幸せな時間を長くゆけると思うのです。
自分がたっている場所から見える風景しか人は知覚出来ないとするならば、時々は、もっといい景色の場所に立って日々を過ごすことができないだろうか。と考えてみるのがいいのかもしれません。
気が付かないうちに、「損を避けて人生を大きく損している場所に今は立っている」としても、別の考え方をする機会に出会い、見る景色を変えていくことができるようになるのも、人間の面白い能力だと思いますから。
(以上、ふと思い浮かぶ心のイメージを構造化して言葉を与えてみました。)