自分がほしいものを作る。そのことにひたすらに従い、たくさんの発明(※)をしていく人はいます。
※ 発明、という言葉について
ここでは、発明のさすものの水準を、特許性のある技術的思想に限定せずに、小さな工夫や道具の考案も含めて述べています。
大辞泉によると「発明」とは「今までなかったものを新たに考え出すこと」であるそうで、例えば新しい楽しみ方を考案するのも発明、といった範疇に入るでしょう。
産業的発明というと、特許性と具現化適合性の合わさったあたりを指していて、人によっては、発明という言葉をそういう高水準のものとしてとらえていることもあります。
本題に戻りますと、発明の作業のあとに、人はそれを製品にしようとしていくと、いろいろと気にしないといけない要素に対峙します。
ビジネスの側面です。
- 多くの人にとって役に立つか(汎用性、使用の容易さ)
- 収益は出るのか(プライシング、製造コスト、市場規模)
- 壊れたり危険だったりしないか(安全性)
- 模倣されないか(イノベーションの占有可能性)、などなど。
これらを考えていくと、考案した発明品の内、一部のものしか、市場に製品として登場しません。
また、次第に、それらのビジネス化の要素群を発明の醸成段階で考えてしまうため、形にする前に廃案にしてしまったりもします。
発明家と事業家。
この二つは似て非なるものです。
歴史の中には、エジソンのように両方であり続けた偉大な創造性の人もいます。
とはいえ、彼も最初は発明家であるけれど事業家ではありませんでした。
彼の最初の製品である「議会用の電子投票機」は、便利でしたが使われませんでした。
そうした失敗を糧に、人々が使いたくなるものを作らなくてはいけないことに思い至ります。この辺からは、事業家としての才覚も動き始めています。
話を偉人から我々凡人のところに引きもどしますと、事業家の資質のない発明家の才のある人、というのは、やはり割と多くいて、こういう人が好き勝手に発明していることに割って入って、やたら経営戦略的なことを述べるべきではない、と思われます。
自分の財布をはみ出さずにやっているのであれば、それは、サーフィンをしたり、絵画を描くことと同じで、それはその人の資質を発揮するエンターテイメントでしょう。
私は若いころ、起業家育成(される側、する側のどちら側にもいました)の場で、多くのものを見た時期があります。
中には、事業性をつけて”もっと発明の時間や資材を手に入れたい”という人が素人商売的に製品化をやってみてこけて、もう本来の発明的才能も焦がしてしまうようなケースもありました。
作った本人だけが使う分には便利な発明品と、安価でたくさんの人に使ってもらえる製品とでは、雲泥の差があります。
そういう人も、いずれ最良のパートナーに巡り合えば、事業の道が拓けますので、できることなら、その人がその人の才覚の中で発明的なスキルを自分で楽しむために使っていくことを、私は肯定し、そう伝えていきたいなぁと、思ったのでした。
そんなことを思ったのはもう、10年ぐらい前のことです。
余談:
今私が自分を評するに、たぶん、才覚的には、事業よりも発明寄りのほうが高いと思います。どちらも突き抜けた水準ではなく、普通レベルの中でのことですが。
そして、時々は「ただ、ただ、自分がほしいものを作る。ほかの人が使いにくいとかは関係なく、自分の使いたいもの100%を作ることに贅沢に時間を投入する」ということをしています。
それは結果的にスピルオーバーとして製品につながることもありますが、それが目的ではありません。
発明家の人格を自由に遊ばせること、それが、たぶん創造的パーソナリティーや創造的コンフィデンスという、強い土台を作るだろうから、です。(それにそれは、やっぱり楽しい。)
創業して加速度的に忙しくなり、年々その時間を取れないでいましたが、今年に入ってからは、なるべく飛行機を使って、頻繁に仙台に戻るようにして、書庫書斎に長くいるようにしてからは、ペースがつかめるようになってきました。
ちなみに、今朝は、【Idea Lifeline(アイデアの命綱)】と名付けた【ブレスト中の脱線から有益なものをつかんでアイデア会議に戻ってくるための道具】をつくっていました。
私なりは、これも「ブレインストーミングの補助道具を作る」という範疇のものです。
そして「これを製品にすることは出来ない。僕(説明者)がいて初めて機能するから。」「だが、それでいい。」という脳内対話をしていました。
その根底にあるものは、上につづった10年前の見聞なんだなぁと、このブログを書いてみて思い至りました。