いつもと毛色の違う登壇として、シンポジウムのパネラーとして、UIJターンのサンプルとして自身の話をする、ということをしてきました。

地方に暮らし全国(や少し海外)で仕事をすることが、東京に住んで仕事をしていた頃よりも、だいぶ豊かな日々だと私は感じます。
そういうところに至るまでの経緯や取り組み方、今後の話をしてきました。
言おうと思って思い出していたことうち、初期の苦労話が抜けていましたので、恥ずかしい過去ですが、つまびらかに書きます。
大学院生にもどった初期の苦労話
30歳の頃、東京の会社を辞め、妻子を連れて東北大の大学院生になりました。
大学院の費用をある程度事前に貯金していましたが、新生児を抱えた家庭では費用が掛かります。
今だから言えますが、そうとうな切り詰めた節約生活をしました。
その頃の私は、いつも坊主頭でしたが、これは、床屋代を節約するためです。自分でやるにはバリカンで丸坊主にするしかありませんでした。
また、研究室にもっていく飲みものは、ペットボトルのお茶でしたが、妻がわかしてくれた麦茶を入れて詰めていたものでした。一つのペットボトルを何度もつかっていました。ペットボトルというのは10回も洗って使うと表面が白くなります。
(この逸話を話して、そうそう、と頷く人は、人生のどこかの時期で生活費を切り詰めた経験のある苦労人だろうと思います。)
隙間風の吹き込む、暗い、築年数の不明のぼろぼろの小さい平屋の借家を借りていました。ブレーカーのワット数もひくく、熱源のある家電をいっぺんに2つ以上使うとブレーカーが落ちる始末。それでも赤ん坊を抱えて鳴き声がしょっちゅうする生活状況なので、集合住宅に住むのは避けたかったので、仙台でも破格のやすい物件を見つけて住んだのでした。
当時はそれがつらいとは、ほとんど思いませんでした。
狭い家ではいつも家族がすぐそこにいて、自分が夢に向かって大学院で学んでいる日々はとても充実したものでした。
それから12年たちました。
今では、生活は一変して、陽当たりの良い家に住み、家族一人一人が自室をもっています。
しかし気が付くと、家族が狭いところにギュッと集まって、本を読んだりお茶を飲んだりして過ごしています。
「あの狭い家に住んでいた時と、変わらないね」と笑っています。
・・・そんな話もしようと思っていましたが、そんなタイミングや流れは無かったのでやめました。
私が登壇中に言及したような「大学に戻る形のUターン」つまり、”U”niversity ターン、をする場合、妻子を抱えている状況ならば、そういう生活も実際にはするかもしれません。
でも、夢に向かっている人なら苦じゃないでしょうし、将来的には、悪くない経験だと思います。
また、生活の質を落としたくない、という「心の贅肉」がついている人も、苦境時代でスマートになれるとおもいます。
心のぜい肉がついていると、何を見ても感動があまりありませんが、それは豊かとは遠い暮らしなんじゃないか、と私は思います。