8000文字の依頼原稿を、1か月間かけて、なんども推敲してきました。
そして、今、ようやく仕上げて提出できました。
丁寧に文章を書くこと。
それを私はずいぶん長い間忘れていました。
丁寧に書くことを思い出して書き始めては、頻繁に生じる旅仕事による執筆の中断。
戻ってくると、軽く忘れていて、しばらく向き合ってまた思い出す。
そんなことを幾度も繰り返しました。
作業振り返ると、以下のような展開をしてきました。
作業プロセス
- 自分の中にある輝く概念を、光を消さないようにして
そのまま外に引きずり出すこと。 - あちこちの欠損を補うこと。
- 欠けのない完全情報になったうえで、折り返し地点。
- 全体として見たときの構成チェック。
- 文章の大規模リフォーム。
- 無くても成り立つ冗長要素のそぎ落とし。
- 削りにくい、エゴや保身からくる
文章速度を下げる箇所の発見。 - そして、覚悟。
- 覚悟をもって、表現を簡潔にしていく。
- 慣用句や例示内容の見直し。
- 誤字脱字、エラーチェック。
この過程中、何度も何度も、紙に出力しました。
ペンとマーカーをつかったアナログでの推敲作業をちくちく、ちくちく、と。
いろんな認知上の理由があるようですが、とにかく、推敲するときには、紙とペンにした方が、ぐっと意識が深くそこにはいれるようです。
PC画面上だと「ああ、これでOK!」と早い段階から感じてしまいますが、紙に刷られた文字だとそうはなりません。
「ここは冗長。トル、と。」
「ここは、句読点までを文頭にもってきいく、と。」
とぶつぶつ言いながらペンで、矢印や囲いや修正文を書いていきました。
<<<執筆余話>>>
大量の時間を投資して、その成果物(書いたもの)をどれほどの人に役立ててもらえるか、と時々考えていました。
大量の時間を投資して、その成果物(書いたもの)をどれほどの人に役立ててもらえるか、と時々考えていました。
たぶん、一瞬で消えていくタイプ読み物4ページなので、千人ぐらいの人が十分間、読んで終わり。
そのうち10人ぐらいは実際に書かれていることを、実践してみるかもしれません。
そのうち一人ぐらいは、いずれ人生のどこかでお会いできる日が来るかもしれません。
それで、十分じゃないか、と。
残りの999人は、一瞬見て、そういう考え方がある、と感じて抽象化し、具体的なことは忘却するでしょう。深層の意識の中に非言語的に残るものが、将来、分岐点でわずかに創造的なほうを選択するかもしれない。それがもたらすものが社会をもっと創造的なものに、ほんのりしてくれる。私はきっと知る由もない。
それで、いいのだ、と思います。
通常、書いた本人が思うほど、原稿に価値はない、という構造も分かっています。
ただ、創造性は賞賛と自己激励を必要とします。
その特性に基づいていえば、自分がした仕事の「貨幣的価値の外にある部分を想像してみる」ことは、自身のクリエイティビティにとっての栄養になるはずで、大事な事だと思います。
ただ、普通はそういうことを口にはせずに、「原稿に書いたことで、考えが整理できたよ」とスマートな表現におさめておくものなのでしょう。
(謝辞:今回、文章執筆に深く向き合うことができたのはのは、今一緒に別の文章(3月に出る書籍)を作っている渡部忠氏の見せてくださる優れた執筆作業からの影響だと思います。ありがとうございます。)