10日ぶりに自宅でぐっすり眠り、朝から書斎にきて旅仕事のいろんなワークと記憶を整理していて思い浮かんだことがあります。
メモに言葉を加えて文章にしますと、次の通りです。
よいアイデアワークは、理屈だけではない。しかし、直感だけでもない。 十分に、洞察をしたうえで、白紙に浮かび上がってくる直観をまずかきとめていく。 そして、それに一つ一つ、与件を満たしているかをかんがえて、それぞれの与件と、描き出すものの機能の打ち手性能を、引き当てていく。 書類としては、すべてゼロから論理で考えたように、緻密さに表現される。 まずもっとも大事なことは、「はじめに白いキャンバスに描く段階でしか直観の筆をふるうところはない、ということ。 そのあと、細かい線を引く、という「論理のボールペン」は、いくらでも器用に動く。 しかし、ボールペンで大きなところがすでに書かれた後に、大筆で何かを書き加えようとしても、はみ出して、うまく言うこときかない筆先に辟易するだろう。 そして、その話の前に大事なのは、「まず、実物や情報を見に行く、知りに行く。問題の本質はなんであるかを洞察して深めていく」という作業。理屈と直観でいえばどちらかというと理屈側の作業がいる。 創造的なものには、理屈と直観の両方が、バランスよく存在している。 そのバランスを、フェーズ毎に言えば、 「理屈(じっくり観察、分析)」 ⇒「直観(大きな線を引く)」 ⇒「理屈(緻密な線を引く)」 である。 |
箱に入れる石の話がときどき、ネット上で引き合いに出されます。大きな箱がある。大きな石、中くらいの石、砂や小石。
最初に大きな石を入れなければ、後からは入らないーーという若い頭の内に大きな学びをいれるんだよ、というあの逸話。
絵や書には、にたイメージもあります。
大きなキャンバスがあり、そこに初めに大きな線をぐいっと書き入れえる。
そのあと、細部の書き込みがあり仕上がっていく。
たぶん、それらでいえば、初めに「どんな箱か。どんな石があるのか。を調べる」ことや、「どんなキャンバスなのか。どんな絵の具が使えるのか。を調べること」ことが、最初の「じっくり観察、分析」だろう、と。
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たぶん我々は、不器用にしか発露しない直観の力をもっと、うまく使ってやることで、よりよいものを表出化していけるのではないか。そんな風に思います。