夜眠る前に考え事をしていて、論語の言葉を思い出しました。
「学(まな)びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し」
辞書を引くと、次のように解説されています。
「教えを受けただけで、みずから思索しなければ、真理には到達できない。」(大辞泉)
あるいは、ネットで検索して、学習情報の多いページではこのようにありました。
「学んで、その学びを自分の考えに落とさなければ、身につくことはありません。」(TOSSランド)
なお、孔子曰く、その逆(思うが学ばない)は、殆(あやう)し、と。
大事な言葉だなぁと、思います。
・・・というのが、一つ目に率直に書きたかったことです。
二つ目です。
思いと学び、どちらが先にあるべきか(どちらが終わりにあるべきか)。
鶏と卵の型の議論であり、無難な答えはたぶん「永遠の循環」なのだと思いますが、
私は「思うが終わりにあるべきだ」と思います。
理由を書きます。
大人であれば「思う⇒学ぶ⇒思う」が妥当なプロセスだと思います。
大人の学習者には経験がある。大人の学習者には機会がある。そういう大人にとってみれば、日々の中からわきあがる考え(=思い)が形を成します。それがどこまでもいけば独断的になるかもしれません(=殆)。
が、広く意見を聞き、学ぶことをするならば、あやうさが低くなり、学びで得た新しい知識を自分の考えに落としていけば、真理に至れるでしょう。
子どもは状況が違います。
いきなり深さをもって思うことをすることはできません。
学びます。経験がないのでいまいちピンと来ない(=罔)。
社会に出る。経験を積み、思うようになる。
思いが積み上がり、仕事がかなり出来るようになってくると手痛い失敗も出てくる(=殆)。
正しく広く知りたくなって学ぶ。
正しく広く知りたくなって学ぶ。
そして習得し、また社会に出て実践し、思う。
このように「学ぶ⇒ 思う⇒学ぶ⇒思う」になるだろうと思います。
大人、子供、どちらにせよ、終わりにあって欲しいものは「思う」である、と考えました。
以上が二つ目です。学んだら、思うべし。
三つ目です。
私は仕事柄、多くの人の「学び」の場にいることがよくあります。
学習者の大半はそのあと「思う」をしない、ということをたくさん見てきました。
正確には、学習者の多くは「学びをそのまま実践してみる」ところまでは、結構、します。
その先の「思う」までする人は実感的には5%に満たないぐらいです。
そういう人とのディスカッションは多くのものをもたらしてくれます。
自分がその5%ぐらいの中に入るような、学びて思う人になっているかどうかを、もっといつも意識していたいと思います。
最後、四つ目です。
学びの場において批判的コメントや懐疑的質問を頻繁に出す人は、多くの講師は「扱いにくい受講者」として敬遠しがちですが、私は少し違った見方をしています。本気で実践していこうと思っているからこそ、その知識の適用限界が知りたい、のだと思います。
つまり、「学びて思う人」なのだ、と。
そのような「学びて思う人(罔しに陥らない人)」に接することは、「殆(あやう)しに陥らないようする」効果がある、と思います。
教える立場に立った時に、いつもそう心に停めて登壇したい、と思うのです。
((とはいえ、単に、生産性のない「非難」や賢くみせたいがためだけの「否定」を発するタイプとの判別はしにくいのも事実ではありますが。))