2019年までは年間170日以上旅仕事でしたが、コロナ禍で、一変しました。
数えてみたら、218日間、現地に行かずに自宅からリモートで仕事をしていました。
この経験は、記録しておきたいので、書き出してみます。推敲なしで。
暗雲の立ち込めた2月。
奈良女子大学の冬季集中講義が2月20日に終わります。
奈良県は日本で最初のコロナの出たところでしたが現地に行くと意外とのんびりしていて、割と普通に集中講義をしていました。しかし、ここから先は、次の滞在地へ行くと、「コロナでキャンセル」が続きます。結局二月末まで、出張はつづくものの直前キャンセルになるので旅程通りには行動するものの、全部キャンセルということになりました。
そして、自宅に2月末に帰り着きます。すると三月以降もすべてキャンセルの連絡が入りました。
この時、創業した時以来の「朝起きて、何もすることがない日」を数日ほど経験します。
2009年の4月1日に創業したのですが、そのころは「案件が途切れ、次の案件も何もないので、今日は何もすることがない」という穏やかな春の日が幾日かありました。
のんびりお茶飲んで過ごし、差し込む陽光に輝く白紙とペンをまえに、「さあ、これから何をしよう。きっと将来大忙しになって、こんな何も仕事のない一日を懐かしく思うぞ。」と、妙に前向きに、仕事のない創業期をワクワクして過ごしていました。(こういう性格の人は、創業者に向いています。研究者としてそういう理性的判断も念頭にはありつつ、地の性格がこういう感じなのですが。)
実際にその通りになり、11年間、大震災と復興の間を除けば、大繁盛といえる幸運な仕事の日々を過ごしてきました。
そういう馬車馬のごとき怒涛の日々が、ぴたっと、何もなくなりました。
さあ、来月も半年後も、何も案件がなくなり、一切の義務がなくなって、その日からは、毎日目が覚めるまで深く長く眠るようになりました。
三日もすると脳もすっかり健全になり、この状況を、第二回目の創業期のように思えてきました。
そして、一気にオンラインに活動場所を移すべく、オンラインのことを学び始めます。
従来もわずかに、オンライン会議はあったのですが、どうにも苦手で「あ、僕、行きますよ。その方が話が早くてしっかり分かりますし」といって、東京大阪どこでもどんどん、行ってしまうスタイルで、リモートは極力避けていました。
そのため、「すかいぷ」という道具しかわかりませんし、それも受話するだけのなんだかおっかなびっくりで、知識を持っていませんでした。
自腹でZoomの契約をし(10ライセンスからの高級版を1人だけの組織なのに、買ってしまって、いきなり無駄なコストで失敗したり、ビデオミキシングソフトをかって、自分と手元のカメラを重ねて投影したり、そのうちに名称が誕生したZoom飲み会も、どんどんやってみたり。
品質の悪いオンライン講座やアイデアワークショップも、試行的にやってみました。
今思えば、相当に低品質でしたが、世の中全部がそうだったのでその時点での先進性はありました。
でもやっぱり、今のスキルがあれば、だいぶ違ったのにな、というどたばたの3月でした。
このスキルの初めに、宮城県のオンライン講義を、いち早く、県のメンバーとともに成功させたのは大きな弾みになりました。その際にクロマキーを買ったりしたので、初めに道具をそろえるいいきっかけをもらったと思います。
超アナログだったのに、5月ごろには、オンラインでワークショップや創造研修をするようになりました。
大学のオンライン講義も始まり、100人や80人での実践中心講義を3時間とか4.5時間するようになり、リモート特有のやりにくさを大量に浴びて、がっくりと首を落として、悔しい夜を幾度も過ごします。
特に、リモート授業は生徒同士が私語ができないのですが、私語は学習を補助する機能があったのだ、とこの時多くの教員が、はっと、気が付いたり、なんてことも。
僕らはいま、巨大な社会実験装置の中にいるみたい。そんな空気が、先進的な先生方の中にはありました。
ひどいリモート授業と、先生が大奮闘して楽しませるリモート授業に分かれて行ったり。
さて、そうして、6,7月、徐々に外出もできるようになり、8月には夏季集中講義が2つの大学でありました。
早稲田で250名のオンライン講義は、困りました。
小部屋に分けてブレストするにしても、Zoomの仕様上、3人小部屋×50部屋=150名です。
しかも実際に別のイベントで、50部屋に分けようとしたら、ボタンが押せず、41部屋まで部屋数を減らしてようやくボタンが押せるという謎の仕様もあったので、実際には120名ぐらいが、可能な受講生でした。
そのため、オンデマンド動画学習授業(Oコース)とワーク実践リアルタイム授業(Wコース)に希望者でわかれてもらい、Wが120名ぐらいに収まり、何とか実践できたり。
なお、これはこれでエクストリーム授業運営でした。
130名が裏側ではオンデマンド授業を進めているわけで、課題内容も違いますし、何より全授業はビデオの先取りが必要でした。出来上がったのは授業初日の朝型でした。
奈良女は20名ぐらいのサイズなのでオンライン授業もスムーズでした。
この2つの対照的な夏季集中講義で、あたらしいオンラインブレスト方法も実験でき、それは、データ分析を経て、秋の学会発表のデータにもなりました。
企業案件はかけませんが、かなりコロナでピンチの会社さんの経営層で新事業アイデアソンをオンラインでやったり、新人研修をやったりで、企業研修も8時間に及ぶオンラインを運営できるようになりました。
さて、こうなってくると「リアルの劣化版のオンライン」が「オンラインの方がむしろパフォーマンスが上がる」という部分も出てきます。
そうすると、リアルができるようになっても、オンラインの実施の方がよりよい案件もある、という心境になってきます。
また私は腰を数年前に悪くして、そのまま出張を続けてきていて一向に良くならなかったのですが、荷物かばんを引いて日本中を行かなくて済むようになったこの200日のおかげでかなり症状が良くなったのです。これは、コロナ禍も、禍福はあざなえる縄の如し、の良い面だなぁと思います。
さて、さて、そうして、10月に2度の東北工大の授業にたどり着きます。
東北工大は下期から対面授業の一部開始があり、私の担当枠は対面に入っていました。
一度目は、生徒も教員チームも全員現地にいて、私だけがリモート講義をする、という形式をとりました。
現地は三密を避けるように、100弱の生徒を2つの大教室にわけて疎になって講義をします。
2つの教室間は、回線でつないで先生のいない方ではモニターで講義をリアルタイムで見ます。
そのため、リモート稿講義はどちらにとっても、公平です。
そして二度目は、比較のためもあり、現地で講義です。
ただ、その前の週末に腰を痛め、講義途中で腰の痛みが限界で、前半のみ対面講義、後半は自宅に戻りリモート講義、というアクロバティックな構成。大学が近所でほんとによかったです。
そうして、218日ぶりに「現地に出向いて仕事をする」と、多くの人が一緒の空間にいることが、非常に違和感をもって感じられるようになっていました。
でもそれも30分ぐらいのことで、皆アルコール除菌、マスク着用、過度な会話のないような運営方法、というのもあり、割と穏やかな感じに進みました。
ただ、マスクを着けて大きな声でしゃべり続けるのは酸欠になりそうで、最後はかなりきつかったです。
この日を境に心理状態が、大きく旧来に戻ります。
7カ月も現地に行かないで過ごし、家からですべてが完結できると、「外に出ていくのが面倒」に感じたり「感染が怖い」と思うようになっていて、かなり出不精なマインドセットになっていたのでした。
そして「リモートはあるべき姿であって、これからもずっとこれでいいな」とも。
でも、現地に行くと、「あ、やっぱり対面はいいな(でもオンラインもいいけど)」、と思ったら、急速に「やっぱりリアルでできる世界に戻せるなら、戻っていくんだろうな」という感覚を受けました。
これが過ぎるとまずい。そう思うんですが、多くの人は、「職場に出てみたら、なんてことないじゃないか。他の人も出社したらどうだ?」となっていったことも、肌感覚として分かりました。
私は、たぶんかなり長い「7カ月の完全リモート期間」があったので、かなり、リモート側の心理を保っていただけに、この辺は変化していく自分の意識を、良く感じました。
と、ここまで推敲なしに一気に書きました。
今11月18日は、また、局面が変わりそうなところにいます。
感染者の拡大、第三波の開始、とも言われ、春先の自粛再びか否か、という段階にいます。
どうなるのか読めない時間が続きますが、春先よりはリモートの環境ができ、機器も品切れでないので状況はいいと思います。
もう、7カ月も完全リモートで過ごせる日は、この先10年ぐらいないかもしれません。
そんな今の記憶と感じたことを書き留めて、置きたいと思い、ここにメモしました。
あくまで直感ですが、リモートは結構このまま一定割合で残る気がします。
対面の良さも大きいですが、コストが大きい贅沢な事、であり、それを多くの人が分かってしまいました。
それは「会うまでもないことを、会うコストをかけるべきかを問われる社会になった」ことでもあります。
多くの人が、電話機と同じぐらいZoomを持っている状態になった今、「リモートじゃみんな参加しませんよ」という従来の否定ワードは使えなくなったので、「対面かオンラインか、決定の合理性」を、ちゃんと考えて、対面を決めるし、リモートも併用するし、災害時にはスイッチできるようにバックアップも設計しておくようにもなる、のだろうと思います。