2011年3月11日、宮城沖で発生した地震が東日本の大津波を引き起こし、多くの人の命や町が半日で失われました。
私はあの地震の時、公的機関の講座の開催中で仙台の中心地にあるビルの中にいました。
激しい揺れに「これは、これまでとはレベルが違うぞ。ビルが倒壊して死ぬかも」という思いも脳裏をよぎりました。
その後、その場にいた受講生を誘導しながら勾当台公園に避難し、解散となり、そこで初めて子どもが行方不明になっていると知り、自宅まで6キロを走って帰ったのでした。
そこから、三日の停電、長い断水、枯渇していく食料の中でのサバイバル生活をしながら、巨大な余震に戦慄する日々を送りました。
そして我々は、世界中から助けてもらいました。
ありがとうございます。
地域は、支援があって悲惨な状況から大きく回復しています。
とはいえ、全部が元通り、にはなりません。
物質は直せても、失った命は永遠に失われたままです。
永遠に会うことができなくなってしまった南三陸の友人を今も思い出します。
快活な人でした。
「死んだ人を思って足を止めるより、その時間で、社会をよくするために前に進め」
ーーそんな、友人の声を何度も聞いた気がします。
がむしゃらに、仙台の人たちと復興に向けて歩んでいく日々。
忙殺でもって、悲しみの入り込む隙間のないような時間の使い方をしていた。
正直に言えばそんな日々でもありました。
震災の一か月後、ようやく再開した出張で、僕は夜、懇親会の席で、仙台の状況を問われ答えた際に、涙を流してしゃべっていたそうです。
(そのことを数年後に、言われ驚きました。人は、泣いていることに気づかないまま泣くことが、実際にあるようです。)
そんな10年を過ごしました。
さて。
10年の教訓を、今心に問うならば、何を記せるか。
最後にそれをつづります。
2011年の仙台は「不慮の死に直面した人がものすごくたくさんいる都市」でした。
そして、悲嘆にくれる人たちにむけて、グリーフケア、という講座が良く開かれました。
そこで言われて、今も覚えていることは
「悲しみを忘れたり、克服したり、は、できない。
ただ、いつも心にありながらも、悲しみと同居できるようになる日が来る。」
というもの。
10年たった今、「10年の時間は、悲しみを同居を可能にした」と思います。
そして、死すべき存在は生きてる限りは人生を謳歌して生きよう、という哲学的な心も育ちました。
悲しみの先にある10年の時間の境地を、率直に記します。
いずれみんな死ぬ。
だからーー、
生きている人は、全力で生きよう。
そう、思うのです。
不格好でも、それぞれに、持っている使命を全力で果たし、日々も全力で謳歌して、生きていきましょう。
苦しい時も、良い時も。