新年となりました。今年もよろしくお願いします。
昨年は、皆様にたくさんの機会やインプットを頂きました。
ありがとうございます。
今年も、自分の能力と知見を最大に活かして、社会を豊かにできるように、全力を尽くします。
皆で、新しい可能性を開いていく一年を今年も、共に、ゆきましょう。
<<年賀状に関する余談です>>
新年のあいさつに知人をまわり、不在の場合には挨拶状を投じた日本の風習は美しいと思います。
現在の郵便の年賀状は明治6年(1873年)に始まったようです。
私は、2012年(東日本大震災2011年の翌年)から、紙の年賀状を廃止しました。
理由は2つです。
〇資源(紙、インク、電力、郵便配達のガソリン)の膨大な消費量を削減したい。
〇そのコストは、震災復興のために、地元仙台や東北に必要な所に投じたい。
そうして、廃止し、この10年間、もらう一方です。
友人知人の中には、「石井は10年前の震災以来、音沙汰がないがどうしたか」と思う人もいるでしょう。
検索してこのブログを見てくれたなら、御礼と不義理のお詫びを申し上げたいと思います。
やめても誰にも実害のないこの風習のために発生しているコストは、復興や社会的な支援のために、これからも投じてゆきます。どうかご容赦ください。
なお、やめて10年、気づいたことがあります。
「年賀のための時間」は「大量の物体を制作する”作業”時間」にしてしまっていたなあ、もったいない、と。
本来、こう(↓)ありたいと、思うのです。
恩のある人・縁のある人を思い、社会の一年を見据え、自分のゆくべき正しき道を見る。
去年の手助けに感謝し、今年も役立ち、ともに進んでもらえるように、と願う。
思いを、心に充填してゆくような、禅的な心を練るような、そういう時間に使いたい。と。
その思いは、直接会った時に、相手への言動のはしばしにのり、相手を思う姿勢として伝わってほしい。
そう、思うのです。
ですが、自分でも自分をずるいなあと、自己批判する部分もあります。
友人の子どもたちが大きくなるのを年賀状で見て、肉筆の一筆をよみ、彼らの発展する近況報告を楽しませてもらっています。もらえば、やっぱり楽しいです。これは、偽らざる気持ち。
・・・なのですが、さらに言えば、ある時、年賀状が来なくなったとしても、その人が、大事な友人であれば、きっと考えがあってのことだろうし、ネットとかで近況を見れて息災で過ごしているならば、それでよいのだ、と私は思っています。
忙しい現代人の、さらに忙しい年末年始、その年賀状の時間を、愛する人たちとゆっくり過ごす半日として、使ってくれる方が、嬉しいです。
以上が、年賀状不義理している石井の言い訳、でした。皆さん、出さなくて、ごめんなさい。
そして、石井への郵送分は、気兼ねなく、止めてくださって結構です。
<<最後にわたくし事>>
昨年、母が亡くなりました。(一昨年は、父が亡くなりました。)
年賀のめでたい挨拶のできない事情のある年でした。
二人とも、長い寝たきり期などもなく、晩年まで元気で、いい生涯を生ききりました。