突然ですが、(いや、そうでもないかな)、今回のブログ記事は、「生成AIは、どう使うべきか。(あるいは、”どう使わないべきか”)」論です。
さて世の中、ChatGPTが急速普及してきた3月あたりから一気に変わりまして。
『生成AIはどう使えるのか』という段階から次の段階『生成AIでより高い効果を出すには』の段階に移ろうとしています。
こうなってくると「どう使えるのか(あるいは、”どう使わないのか”)」を手堅い組織でも、議論の俎上に載せざるを得ません。そう、大学です。
大学にはAIの専門家や、AIで甚大な影響を受ける研究者がいて、学者同士の議論で深まります。
そして、3か月後の今、大学からの声明が次々と周知されるようになりました。
ある大学は、結構先進的です。
「10年後の彼ら(現在の大学生)が、AIを使っていない未来は考えられない。その未来に向けて今、どういう教育をするべきか、考えなければならない」というアバンギャルドな雰囲気。”おおっ”と思って情報を受信していました。
またある大学は非常に思慮深いです。
「知識を十分に持たない人には、回答が不確実であり、情報流出の危険もある。学習の阻害要因となることもある。使わない選択肢も検討しなくてはならない」と。
どちらも理のあることで、良いとこどりをしていきたいです。
先進的、保守的、それぞれから学ぶべき点を挙げてみます。
〇先進的:
10年後。今の調子で発展した「10歳のAI」が、デジタル空間上やデバイス上を跋扈(ばっこ)しています。そのころに「使わない」という選択肢はほぼないでしょう。そして、指数関数的に成長するAIの能力にずっとついていくには、『拙速でもどんどん突っ込んでいく行動』が必要と思われます。
その時代その時代のAIの、先進的な利用をする人が、ビジネス的に上昇気流にのれるでしょう。そういう未来に向けて、今からカタパルトは上に向けて準備しなくちゃ、と。
〇保守的:
漢字変換が登場して我々は、漢字が書けなくなりました。「読めるけど、書けない」。同じ事がスライドして起こります。文章構成能力です。「手直しはできるけど、人力ではゼロからは書けない」。こうなることはほぼ確実です。さて、大学時代には、「大きな概念を構成し、推敲していく能力」が大きく発展します。その時期に、AIアシストがあることで、「論述の筋肉」というものを鍛えずに、進んでしまう。それはやはり、大きな懸念を残します。
また、AI時代には知性の意味で”背の高い人”は有利です。自分の知識の範囲にあることをAIに生成してもらう。判断がつくので適切に使えます。大学教員はある分野ではものすごく”背が高い”ので、AIが十分、使い物になる。しかしあらゆる分野において初学者である学生は、どういう専門分野についても”背が低い”ので、AIで生成したものの適不適を判断できる幅が少ない。この背の高さを教員サイドが見誤ると、「判断可能範囲外で、AIを恒常的に利用する」という学習行動を刷り込んでしまう。このリスクは実際あります。
両極端の論を、書いたところで、石井の現時点の考えはどうなのか。述べてみます。
どちらかと言えば「先進的」です。
利用してどんどん先端を走ろう、というスタンスでいます。(実際AIカードも作って、授業で配ってみんなで使っています。)
しかし、その時に常にこうも言います。
「今、大人たちは、漢字は読めるが書けない。使わぬ筋肉はすぐ落ちる。脳も同じだ。さて、AIは論述の筋肉を楽させる。AIを使って生成するならば、趣味とか日記とかでは、自分の考えを”人力で”論述することを日々心掛けるべきだ。
『使いこなせる。高度な成果も出せる。そのうえで、使わない選択もきちんとできる。』こういう能力が必要だ。
「自分自身の操縦者」たれ。・・・そんな「気概」も同時に言及するようにしています。
(詩「インビクタス」(負けざる者たち)に出てくる『私が、我が魂の指揮官』という言葉があります。これ、AI時代には、ほんとに、一層多くの人に重要になる言葉だと石井は思うのです。)
という事で、「使いこなせるようになること。そのうえで、使わない選択肢をとれるようになること」が、大事だ。
石井の私見にすぎぬのですが、私は、そう思っています。
以上、教壇に立つときの石井のAIに対するスタンスの表明でした。
(なお、これは、2023年の6月末時点のものです。AIはすごく早い変化を遂げるので、一年後、もしかしたら3か月後には、もう、別のスタンスをとっているかもしれませんことを、申し上げておきます。)
タグ:生成AI