被災生活での工夫を、たくさん書きました。先週のサバイバル期は、知的生産においては思考停止と活動停止をしていましたが、今は徐々にその再起動をはかっています。いわば助走期間としてのブログ作業です。
2011年(平成23年)3月11日。
この日は、実は完全徹夜で仕事に出ていました。10日の夜から11日の朝まで、ある企業さんの創造研修のスライドを作成していまして、その日は朝を迎えてしまいました。
朝9時から私は仙台の広瀬通にある、せんだい・みやぎNPOセンターのビルの3階にいました。サービス開発プロジェクト、という起業家支援プログラムの講師の一人として参画していました。半年にわたるプロジェクトで今年で3期目でこの日は3期の最終回で、大々的なビジネスプラン発表会の日でした。午前中は3階の狭い部屋で、発表者同士がプランの発表練習やブラッシュアップをしていました。徹夜で体が寒かったのですが頭はさえていました。
昼の間、会場となる6階の大きな会場に移りました。皆さんは昼食を。私は遅れてきた発表者の方の発表練習を補佐してずっとタイムキーパーをしていました。本当は昼休みは5分でいいから仮眠をとりたいところでしたが、仮眠はおろか、昼食もとれずに、午後が始まりました。
昼の始まる直前、主催者さんから今日の講師料封筒を受け取り、領収書に日付を書いて渡す時に、「23」「3」「11」と書きながら、(ああ、今日はすべての数字が”素数”だな。)と思っていたのを覚えています。(ちなみに、311も素数です。まったく素数と地震は関係ありませんが。)
13時から、あきない総研の吉田雅紀さん(ドリームゲートの吉田さん、として記憶されている方も多いでしょう。あの吉田さん)が、1時間の基調講演をされました。このプロジェクトの一期からずっと吉田さんがかかわってくれています。
私はこの時間帯に昼食に出る予定でしたが、吉田さんの話にぐいぐいと引き込まれて、最後まで聞いてしまいました。
14時からは、10名弱の発表者が10分プレゼン+5分質疑、をダーッと続けていきます。私はタイムキーパーをしていました。
トップバッターの芳川さんが、鉢物のある生活をサポートするビジネスプランを発表し、二人目の大沼さんが、桃生で古民家で和菓子を楽しむカフェのプランを発表し最後の30秒のイメージ動画を再生しているところで、それはやってきました。
たてものが、ゆっさん、ゆっさん、とゆれて、皆があれ?とおもったら、沢山の携帯が、「ブギュゥゥゥ、ブギュゥゥゥ、ブギュゥゥゥ」と例のアラームを立てはじめ、大きな揺れが来ました。揺れの間、照明が消えて又ついて、チカチカチカと照明がついたり消えたりを激しく繰り返し、異常が起きていることを感じました。
イベント会場には、発表者のほかに、行政機関や聴講者が50名近くおられました。揺れのさなか、主催者の中央会の間さんが「机の下へ」という指示で皆机にもぐりました。素晴らしい初動でした。が、会議机の軽さでは机が揺られて下に入っていることは難しく、男性二人が机の下にそもそもはいるのは厳しいものがありました。
ちなみに、巨大な地震の場合には、机の下に入ることは推奨されていません。防災解説書よると。しかし、発生した時にはそれはわかりませんし、蛍光灯の落下がそうていされましたので、机の下へ、というとっさの指示は現場を考えると適切です。
私の前の机には吉田さんがいらしたのですが、彼は揺れの間、ずっと机を抑えて椅子に座っていました。大地震の経験があるからだったのかもしれない、と今にしては思います。
長い揺れでした。
かつて経験してきた地震とはちがって、またビルの6階にいたということもあって、ゆっさん、ゆっさん、ゆっさっさん、ゆさゆさゆさ、ごごごお、という感じで、長いスパンで揺さぶれて「こんな揺れ方をされると、酔うな」と思っていた記憶があります。私にはその机の下で揺さぶらている時間は30秒から1分ぐらいの時間だったように思います。
そして、ほどなくして、間さんは「本日は中止します」とアナウンスし(この判断が即座にできたのは、素晴らしいな。と思っていました)といって、「会場の指示に従って速やかに避難してください」ということに。
50人近いお客さんとプラン発表者の方に先に避難してもらい、スタッフや講師陣も非難しました。私は皆の退出が完了するのを見届けて退出しました。中央会の方は、二手に分かれ誘導役として先に出た部隊と、最後まで残って皆を送り出す部隊で動いていました。
何度かの揺れがあり、そのたびに、私は柱の多い、そしてガラスのない所に、身を寄せました。建物の倒壊があれば助からないとしても、窓ガラスの破損などで納まる規模の半倒壊であれば、ガラスの多い所や柱の少ない構造的に弱い所はさけておきたいと考えてのことでした。
荷物を非常にたくさん持っている方もいて、おいて逃げるべきだけれども大事なものゆえ持ちたい、ということだと察して、私はその方の荷物を持つことにしました。なにせ、後戻りはできないので。彼女はその後、大荷物をもって徒歩で遠方まで帰宅しかと思うとこの判断はミスであったかもしれないと少し後に思いましたが、この辺は現場では難しい所です。管理できない会場に残せないという側面と、被害の大きさをすぐには感知できないという側面から、実際に現場で起こり得ることなんだろうと、今になって思います。なお私自身は小さい貴重品バッグ1つで出てきました。
ビルを降りて、広瀬通に降りてみて驚きました。仙台の街が人の海になっています。渋谷駅のスクランブル交差点の様な人の多さ。初めての光景です。

ビルの壁が一部はがれて歩道に落ちているのをみて「わ、すごい」と言っていましたが、事態はそんなものではないと、次第に気づき始めるのには少し時間がかかりました。

フォーラス前の広瀬通です。車が走っているにもかかわらず人が広瀬通に押し寄せています。これは、現地にいると行動の糸がわかります。ビルからのガラスの落下や次の地震での倒壊が及ばないように移動したいけれどこの辺は中心地でビルだらけなので、なんとか広くて高い物のない所へ移動しようとした結果、片側3車線の大通りの中央分離帯を目指した人が車路にもあふれてこうなります。それでも走り抜けるタクシーはさすがにプロです。一般車は人の波に躊躇していました。

ある商業ビルの一階。発生から10分もたたないうちに、パイロンがたてられていました。この時点では「あ、安全対応が早いな。」と思いこそすれ、都市機能がマヒするかも、なんて思っていませんでした。
サービス開発プロジェクトのメンバーが連れ立って移動し目指したのは勾当台公園でした。街中でビルばかりの場所から一番近い「建物のない場所」としては勾当台公園が確かにうってつけです。私は自宅と逆方向になることに躊躇しましたが、荷物の大きな方がそこに向かうので選択の余地なく、勾当台公園へ歩き始めました。

勾当台公園の近くのビルが外壁はがれを起こしていました。

勾当台公園について、びっくりしました。どんな祭りでも見たことがないぐらい勾当台公園に人が!ムスカがいたら「見ろ、人が(省略)」と言いそうだ、とか思いながらとりあえずここに皆で入りました。花壇なども人でいっぱい。写真をみるとこの時点ではまだ携帯電話が通じていたことがわかります。
トイレに入りたくて公園の隅のトイレに行きました。近くにベンチがあります。

いつも、何人かのアウトドア派住民(住民票を持たない住民)の方がこのベンチでお昼寝しているのですが、さすがに今日はどうだろう?と思ったところ、悠々と寝ていました。トイレに急ぐ傍ら私はふっと思っていました。彼らの全財産は常にその大きな鞄などに収まり、住めるところが”今日の家”ところなんだ、この事態でもとくに何か焦ってすることはない、ある意味現代の仙人だなぁ・・・と。大きな災害の中で忙しい思考の中でもそんなことを思っていたのを覚えています。
さて、ここで自宅に連絡を、とおもったら、しまった、もう、発信ができない。
なんどもなんどもトライしていたらようやくつながり、下校時間であった娘が30分経っても帰宅していない、とのこと。これはまずい、と思い、その集団行動を抜けさせてもらい、自宅まで走って帰ることにしました。スーツに革靴でしたが、すべての交通機関はストップしていて、とにかく汗だくで走るしかない。
仙台の中心地から八木山南まで、一番近いのは、八木山橋を越える方法でしたが、少し考えてあの橋は崩れている可能性を考えて、橋を渡らずに八木山南に行ける方法として、愛宕橋、西多賀へと抜ける286号を選びました。それでも愛宕橋はこえるので、もしわたっている途中に巨大地震が来たら、と思うととにかく走って短時間で橋上を抜けることを心掛けました。(後日、知ったのですが、やはり八木山橋は通行止めになっていました。)
愛宕橋のあたりにコジマ電機の跡地があります。

廃屋となったそのビルの巨大窓ガラスは軒並み割れて通りに落ちていました。これは地震時に下にいたら大けがをするレベルで危ないな、と思いました。仙台の建物でそこまでガラス面が壊れていたのはごく少数の様でした。
途中で道が隆起していたり、歩いている足取りをとられるような大きな余震がきたりしました。

緑ヶ丘から286に降りるあたりのセブンイレブン。さすがにセブンイレブンはもう、営業再開しているのか、すごい。と思い、私は自分が空腹であることを思い出して買おうかと思いましたが、7人ぐらいならんでいるので、娘の探索優先で並ぶを避けて通り過ぎました。今思えばこの後の何日もの食料難が来る前の、最後の新鮮なサンドイッチやお惣菜を手に入れらる機会でした。でも、親としては仮にこれから飢えることを知っていたとも、娘優先でしょう。
勾当台公園から八木山南まで、西多賀側から回り込むと、9.1キロの道のりですしかも最後の三キロはひたすら上り坂。さすがに足ががくがくになっていました。普段からウオーキングをしていますが、スーツに革靴で走るのはかなりのつかれ方です。しかも混乱する沢山の人を避けて、路面の危ない個所を走るのはかなりの体力消耗です。信号待ちで止まったら、足がつりそうになったのでやむなくすこしペースを落として歩くことにしました。

山あいの住宅街の中にふさがれた名もなき小さい川があります。普段は気にすることもないその川の出口を通りがかったら、見たことのない茶褐色の水が流れていました。なんだこれは?地震の数分の揺れでこんなに土が舞い上がるものなのか?と内心おもっていました。そういえば巨大地震の起こる前や、大津波の発生する前に井戸の水がひどく濁るという話をふと思い出していました。関係のほどはわかりませんが。

大きい余震が次々遅い、心細くなって空もだんだん暗くなってきたとおもったら、雪が激しく振ってきました。汗でびしょ濡れの体が走れなくなって冷えてきたところにこの雪で体がどんどん冷えてきました。
古い住宅街の道を登り始めると、街中とは違った景色に出くわしました。

ブロック塀の倒壊です。地震対策の本では地震が来たらブロック塀から離れよ、とありましたが、まさにその通りだなと実感していました。

完璧にごろんと倒れているところもありました。
この辺になって、ようやく自宅と連絡が取れて、娘は学校にもどっており、親が連れにくるまで待機となったということがわかりました。妻が迎えに行き無事に帰宅としり、ほっと一安心。そうしたら、もう足がよろよろでした。(このあと2日間、ひどい筋肉痛が続きました)
自宅に戻り、皆の無事な顔を見たら、座り込みたいところでしたが、余震がひどく、家の倒壊の危険性もあり、すぐに脱出待機状態にしないといけないので、ドロドロになったスーツを急いで脱ぎ捨て、ジャージの様な動けるものを重ね着して玄関近くに戻りました。
妻に自宅の様子を聞いて、屋内に危険な破損はないかを確認したところ、私の仕事場(書斎)がもっともひどいと。他に危なかったのは食器棚と冷蔵庫だったそうで、妻はとっさにそれをおえたそうで被害がなかったのですが、途中でこれは押しつぶされそうだと思い、それらを捨てて身を隠したそうです。危ないので次からはおえないように、と言いつつも、私も書斎にいれば資料棚をおえたかもしれないなと、一瞬思いました。命よりも重い物なんてないけれど、瞬時にそのレベルに切り替われないものだなぁと。壁が傷つくとかいってないで、地震金具をつけておくべきだったと一瞬の後悔がおこったことを覚えています。
さて、小学校に避難するべきか、自宅で様子を見るべきか、余震の様子を見ながら考えます。地震直後は停電してテレビが見れず、情報が入らなくなりました。テレビを携帯電話で見たことがなかったので、私はそれまで携帯電話のテレビ機能をしりませんでした。ネットで情報をとる時代になってからは、気が付くとラジオが一つも家の中にない!ということに気が付きました。停電なのでインターネットも死んでいます。
私は妻とお互いの知る情報を共有し、ほどなくして、(これは、しばらく避難所生活が始まる可能性が高い)と感じて、急いで避難する準備をしました。最低限の荷物を集めて、玄関の近くに置きます。防災ハンドブックによれば一日一人3リットルの水がいるとあり、持ち出すことはできないまでも、倒壊が進んだ後も窓をこわして取り出せるように、飲み水を移動しました。
余震が収まりつつつあるなかで、私は妻の言う”書斎がひどい”、という状況を見に行きました。

貴重な資料、開発途中の作品、大量のデータが入ったハードディスク、スキャンスナップ、クレジットカードの類、などが書棚の倒壊でもうそれはえらいことに。アイテムや書類の大海原となったで、なんとかノートPCと実印・社印が無事であること確認し、掘り出してきました。
その間に揺れてそれはひどい恐怖でした。まだ倒壊していないものもあったので、それがこの地震で崩れてきたら−−と。最後まで掘り出しにてこずったのは、外付けHDDでした。私の事業は極端にいえば、頭一つあれば再開ができます。でも、あるとないとで大違いなのが、ノートPC、外付けHDD、実印・社印です。この3つを余震におびえながら掘り出している間「これをあきらめて生き残る確率を高めるべきだ」と防災知識が警鐘を鳴らし、一方で「余震の納まっている今掘り出さないと、更に書棚の倒壊がおこれば、機器類は潰されてしまう。今なら−−」という声のせめぎあいの5分でした。
この作業がうまく進まなかった大きな要因の一つは「倒れた書棚を起こせない」ことでした。起こしてしまうと、また倒れてくるかもしれない、という部分もありますが、それよりも書棚の背面に沢山のものが入ってしまいそれをどけない限り、書棚を起こせない。それをどかすには広い場所がいるけれど、そんな場所がない。そういうジレンマを感じていました。
大事に使っていた、私の書斎机、これは友人の木工作家さんにつくってもらったのですが、そこに、本棚がスパンっとめり込んだ跡がありました。この勢いで後頭部を直撃されたらこれは、かなわんな、と2秒ぐらいおもったのでした。不幸中の幸いで、私が椅子代わりにしていたバランスボールがどうも本棚倒壊の時のクッションになったようで、派手な飛散状況の割には、破壊されたものが少ない状態でした。
そうして、下に必要なものを持って降りてきて、また余震に備えていました。
妻は小学校に避難しよう、といい、私は余震が強いもの間隔が次第に長くなってきているのでしばらく様子をみたいと思い、まずは、妻と娘たちだけを避難所に避難させて、一時間後に私もそちらへ合流しようということにしました。
というのは避難する荷物を取り急ぎあつめたものの、荒っぽい集め方だったので、要らない荷物が入ったままだったりしてそれを出したいと思ったからです。また、この後、自宅が倒壊することがあれば、中には入れませんが、防災の本によると、「200時間」が公的支援のくるまでに、独自で生き延びないといけない時間だとあり、これは日数でいうと8.5日なのですが、この時間を生き延びるには、もうすこし家中の食糧飲料を集める必要がありました。いますぐの避難を、という考えと、できるだけ食料の持ち出しを、という相反する2つの要求に矛盾しながらも、折り合いをつけたのがこの行動でした。
一時間後に私が出発しようとした時に妻が車で戻ってきました。八木山南小学校は電気がない上に、水が出ないと。
この時点で八木山南の自宅は水が出ていまいた。(翌朝には出なくなっているのですが)
一度は避難所に来た人たちも、自宅に戻れるならば自宅に、ということになり、多くの人が夜に帰り始めて、妻たちも返ってきたものです。
この番は、玄関のわきの部屋で服を着たまま寝ました。みなお菓子を食べて夕食としてねましたが、私はずっと空腹だったので、昼に焚いてあったご飯と電気の来ていない冷蔵庫の中に納豆がありそれで夕飯にしました。
前の晩は徹夜だったので、いつもならビールでも飲んでぐっすり寝たいところでしたが夜中に運転する可能性もあるし、そもそも緊急時に判断が鈍るわけにはいかないので、炭酸水を飲んでいました。
暗くなり、揺れが来るので皆で一か所にかたまって寝ました。電気がないので、ろうそくを出してきてつけましたが、こんな明かり1つでも結構あかるいもんだと思ったのを覚えています。1つしかない光に家族がよりそう、というのは、なかなか悪くないぞ、と内心感じていました。
暗いと人は眠くなります。8時が過ぎるとすることもなくなり、ろうそく一本の明るさだけなので、皆が眠たくなりました。
子供が寝て、妻と、携帯のテレビでニュースを見ました。電池が持たないのでわずかの時間にしましたが、小さい画面の中では、字幕が見えず、街が水に飲まれる映像があり、これは何県のできごとだろうか、と思っていましたが、すぐに消して寝ました。私は、なんとか通信のつながっているiPadで情報を集めたり、ツイッターやメールを急いでチェックして回り(今日のイベントで使っていたので既に40%しか電池がないので)、頂いていた安否確認のメールにこたえるよりもとにかく生き延びるための情報を得ることに電池電力を費やし、残り15%になってしまったので、そこで電源を落として眠りました。
なお、災害時のセオリーとしては、水が出ているうちに浴槽に水をはるべきですがか、我が家は二階に風呂があり、この激しい揺れの中で二階に200キロの水を置くことは倒壊リスクを高めると思い、やめました。それでも眠る前に、鍋やポリタンクに水を張らないといけないと思いましたが、今日はもう暗いから、明日の朝起きたら、、、と思いながらうとうとしてしまいましたが、これは大きな失敗でした。翌朝には水が出なくなっていて「しまった!」と思いました。
また、たまにかけられていた携帯電話が、翌日は完全にアウトになりました。iPadの3G通信も急速に弱くなり、情報が途絶え始めました。携帯の電池がなかったのでテレビをわずかに見て、後は、車のラジオを走っている間はとにかく聞いて情報を得るようにしました。しかしガソリンも有限なのでこれも本当に必要な時だけに絞っていました。手回し式のラジオがあればなぁと、何度も思いました。また、車のシガーソケットから携帯電話を充電するユニットを買っておけば、とも。
この被災した時点から数日間は「急速に、情報取得の手段が閉じていく」と思いました。被災直後は電話通じるし、ネットもつながったので、やや安心したのもつかの間、急速にその情報の窓が閉じていくので、とにかく取得できる限りしておくのが良いとおもいました。初動が効果を大きく変えます。情報が多いほうが、生き残る確率は上がります。
こんな感じのことを、私は「3月11日」に、仙台で体験しました。
・・・
阪神のような都市の真ん中の場合は、三日間で、と言われますが、防災のガイドブックによれば、大規模災害の場合、公的支援の来るまで200時間を想定して行動していかないといけないといわれます。それは日数でいうと8.5日。今回はちょうどそれに当たります。しかし、なお、沿岸部の孤立地帯では厳しい状況が続いています。なので、この災害が終わったわけではありません。
しかし、生き残った私たちは、失った仲間の分までより良い社会を創る志をもって、歩き出せる人は力強く、新しい発展の道を駆け上がっていくべきだと思います。
私なりに、心的整理を付ける意味で、「311(の日記)」を書きました。これがかけるようになったら、インフラ的にも、心理的にも、事業体制的にも、復活である、と自分自身で予想していましたが、その通りだと思います。
蛇足:
ちなみに、私の活動の中には「防災アイテムのアイデアだし」をワークショップで行ったこともあります。
大阪の公的機関にて
http://ishiirikie.jpn.org/article/36070793.html宮城の公的機関にて
http://ishiirikie.jpn.org/article/35488023.htmlみやぎ工業会 ライフガードデザイン製品開発分科会
http://www2.odn.ne.jp/m-indus/20jigyou/ld-bunkakai-1.htm
いずれも、すでに終了しているものですが、その活動の中で、今後の防災アイテムのアイデアがありました。たとえば「プリンタブル・絆創膏」いざという時のために、名前や住所を刷っておける絆創膏。避難時にはぐれそうなら、腕に張り付けておくとか、避難所での自分の持ち物に張る用にもいい、とか。今回、私の被災生活では、様々な代用品を使って「なくてもなんとかする」「いつもと違う行為をする時に足りない何かを補う」というアイデアを実際にトライしてましたがそれらは、そういう活動の中でエッセンスをもらっていました。
今後もそういう防災アイデアのワークショップは、やはりやっていきたいなぁと、今ふりかえると思うのでした。(もっと、アイデアを昇華させて製品化させておけばよかった、と被災した夜に、思いましたし)