仕事のある部分をサボったとして、そこで、手を抜いたとして、私は一体それで何を手にいれる?今日ぐらい休みたいし休んでも誰も文句を言わないだろう、と、面倒な作業について思う自分がいます。それが面倒なのはなぜか?やりたい仕事の一部ではないのか。熟達していくことと、慣れて手を抜いてしまうことは、全く違う。他の人からは見分けがつかなかったとしても、自分の中のわくわくする子供の心はそれを見て、光のない目で己を見るだろう。そんなことをふと思っていました。知識やノウハウを出し惜しみして、大事にPCの奥底に眠らせたとして、それがいつか何かを生むのか?
そういう生き方をしない限り、いずれどこかに限界が来る。満足は慢心を引き起こす。そうすると最初に枯れるものは、自分自身のキュリアスマインドだ。そして、肯定的心理様式が次いで枯れていき、何を見ても面白くないし他者の成果を見ても取るに足らないものと思える。多くの人々が愛すべき対象から、単に存在する世界の一部に代わる。顧客への圧倒的な愛が、自発的に湧いてくるものから、無理してそう持っていかねばならないという状態、つまり偽りの情熱になる。その先にあるものは、モチベーションの枯渇だ。それでも一定の仕事は技能上できるだろうが、顧客の輝く瞳を覗き込む瞬間はゼロになる。加速度的にその仕事に対して能力が発動されなくなる。才能は立ち止まり、劣化する。肉体の成長が止まっても、いやむしろ劣化を始めても、進み続ける達人の仕事はますます鬼気迫るものがある。肉体の劣化を超える才能の発展が人間には可能。たまたま幸運にも、才能を発露させる高性能のOSを積んでいた人間が、急速に才能を失うプロセスというのは、ただ一つ、怠惰、であろう。
怠惰な心を自由にさせておくというのは、ここまで進んでくる間に、助けてくれた人々(教えてくれ人、機会をくれた人、一緒に作ってきてくれた人)に感謝を欠いたことである。それはとても恐ろしい転落への始まりである。
多くの人を愛する。
愛する人たちを幸せにしたいと強く願い、それを実現する方向に自分の能力をフルに使う。
タイトルの問い。その問いへの答えはこうであろうと思います。
怠惰が枯らせるものは、愛情。
怠惰が枯らせるものは、才能。
怠惰が枯らせるものは、未来の可能性。