これについては、はい、とはっきり言えます。具体的には次のように答えることができます。
●アイデアトランプ(2012年3月14日、リリース)
・通常のアイデアプラント製品として、幅広い層へ(特に親子で使う事例も出てきました)
・被災地支援活動者への無償提供
・子供向けのワークショップ(東北大でのサイエンスデー等)
●アイデアワークショップを世界へ
・TRIZ Card(智慧カードの特別(他言語併記)版)
・IDEATRUMP(アイデアトランプの特別(他言語併記)版)
・Brainstorm Card(ブレスターを大幅に単純化して4枚のカードにしたもの。アイデアトランプのゲームの第二段階用として作った物で、簡易的なブレストのルール、のカードとして参加者にあげることも)
国際化の目的は、今後20年の変化を見越しての事です。
産業シフト、超少子高齢化、ITの発展による高度翻訳環境の充実に伴う日常的コミュニティーの広域化が、今より学校や職場をもっと国際的なものにすると予測しています。
アイデアプラントの仕事は、アイデア創出の支援です。ぶれずに続ける事業であり続けるには、予測される未来の社会に向けて、我々のあり方は常に変わり続ける必要があり、今は国際化のトレンド感に対して、実際に渡航して海外の創造的な営みに対する感覚をつかむ活動をしています。今は、純粋に開発投資となる渡航費用ですが、事業の5%ぐらいまでは、開発費としてむしろ使い続けるべきだろうと思っています。
●日経ビジネスONLINEにて、アイデアワークの連載(現在、連載進行中)
拙著『アイデア・スイッチ』では書けなかったアイデアワークの本格的な4つのフェーズ、および、創造的風土の要因について、つぶさに書いています。原稿は作品ではないでしょう、と指摘を受けそうですが、私には、それも一つの作品だと思っています。創造する組織や、現場で創造的努力をする人に、追い風を作るために、CEOやマネージャ層に届くような紙面(Webなので画面、というべきかもしれませんが)で、余すところなく書いています。
●各フェーズのパーツが整いつつあるアイデアボード開発プロジェクト
形になるにはまだまだ大きな努力がいります。今は各フェーズ(特に第0フェーズ「テーマ設定ワーク」)の知識要素の基本ができた段階であり、それを道具なり、ゲーム的教材にするなりにするにはこの先膨大な時間が要ります。知識のさらなる蓄積、モデル化とその実践の繰り返し、アイデアボードの開発メンバーとの構想ブレスト、アイデアを試作しテストプレイをすることを繰り返していく必要があります。最大のネックは、開発のコアメンバーがあまりに忙しくなってしまったこと。最近、震災後の復興の動きがひっ迫したものあり、ろくに会話をできていません。一番自分が大事にして、そして、一番楽しいとおもっている「作品開発のブレスト」を、後回しにしていたんだなぁと、今、振り返ると思います。
●大量の、ワークショップ
企業や組織に呼んでいただいてアイデアワークショップを行いました。毎回違う内容、時には全くゼロから、創りました。どうしても量が増えると、時間的に重なる依頼が出てきてお断りすることも出てきましたが、いつも断腸の思いでいて、何とかして受けられないだろうかと思っています。そうしているうちに、仙台の自宅を出たっきり半月近く、日本国内を行脚しているような仕事スタイルになっていました。
以上、39歳の私の問い、に対する自分なりの答えでした。
■ 震災から一年を迎えて
震災。そこからの復興。その後の社会のそのムード。
この一年でずいぶん変わりました。
2011年の暮れに向かってTVニュースは「A地区の被災地の避難所が解散となりました」と報じることが増え、ついには、全ての避難所がなくなり、それが”震災は終わった”という社会的ムードを作りました。
私は自宅は仙台ですが仕事柄、東京、関西、他の地域に滞在している時間が長いのですが、他の地域ではニュースが全く震災後の被災地の事をやらなくなったことも感じていました。
私自身は、親しい人の喪失という悲嘆にくれる心理からの回復をゆっくりたどり、津波でなくなったエリアを訪れる心構えができたのは今年(2012年)に入ってからでした。
年明けすぐの1月3日にようやく沿岸部へ行きましたが、閖上(ゆりあげ)、そして南三陸に行ってみると、荒涼とした風景が広がっていました。高台に上がってみると見渡す限り、家の有った痕跡(家の基礎ブロック)だけが残る風景がずっと遠くまで続く「更地の町」でした。
ニュースの報じた「避難所がすべて解消された」という言葉は事実で、沿岸部から遠い所では、復興がなされたかのようなムードが漂いました。しかし、それは、それは「避難所にいた人が元の生活に戻っていった」こととは全く違うのだ、と愕然としました。311から数日でもどれた避難者の場合は「避難所から元の生活にもどった」ケースが多かったでしょう。しかし、数か月過ぎて避難所にいた多くの人々は、住んでいた自宅に戻ることも出来ず今なお、冬は寒く街から遠い場所にある小さな仮説住宅にいます。”住宅”といっても、一戸建てのしっかりした家とは違います。まさに、仮の、住める箱、です。
震災から1年ちょっとがたった2012年5月、津波にのまれた南三陸(志津川)の友人が、DNA鑑定の結果発見された、との情報をうけ、7月末に納骨されている寺に手を合わせに行ってきました。
町は正月に来た時と同じ、更地の町のまま。経済的な要因もありますが、元の住民でも次の1000年を考えると、建設許可エリアの問題があり、家を底に立てることは、行政的な保留がなされている面もあるのかと思います(ニュースで聞いた建設許可保留エリアのある地域がここにもあたるのか、私はわかりませんので、断言は避けておきます)。
この震災からの復興というのは、一時の作業ではなく、20年30年というスパンで続いていく問題であり、特に、その中でも、遺児や孤児の問題が最も長く続くでしょう。家や道は、資金しだいでは形を戻すことはできる可能性がありますが、絶対に戻せないものがあります。はっきりと書けば「死んだ父母は未来永劫、絶対に元に戻らない」わけで、そうしたことを抱えた幼い子供たちは、平均寿命の観点から行けば、80年以上生きて、何%かの人は、22世紀を迎えるでしょう。悲嘆(グリーフ)というのは、忘れることができるタイプのものではなく、悲しみと同居していくことが、せめてできる唯一の事のようです。
この時代に、大人として同席したものとして、そうした数十年のオーダーで「震災からの回復の途上」が続くことを心に刻み、自分の立ち位置からできることをいつもしていこうと思っています。アイデアプラントという生き方を通じてそこからできていく作品として、そういうことをしてゆくのだと、肝に銘じています。ずっと続ける、とは、そういうことだから。
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さて、この一年を見通し、どこを目指そう。
そう、昨晩からずっと、考えていました。
私たちのコンテンツは、2007年前から生まれはじめ、拡充してきました。
次にすべきことは2つ考えられます。
1)既存のコンテンツに新しい形を与える努力をする。
2)コンテンツの幅を広げる新しい学びを得る努力をする。
多分、記事を書く、というのは、1)の前段階である「今までしてきた暗黙知の形式知化」段階であると思います。そうしてふわふわしたものに一定の基礎となる足掛かりを作って、変化形を作ることができるのでしょう。
2)の方は、良く知っている専門知識に終始せず自分の知力の枠を拡げるために、学ぶに没頭する、ということで、来年は不惑(40歳)を迎える時に、「学びづつける姿勢を持っているか」ということがその先の40代の生き方を大きく変えるのでしょう。特に私のような仕事をする者にとっては。
アイデアボード開発プロジェクトのまい進もありますが、次の開発行動も見据えての今年一年を送れることが、このタイミングではとても重要だと感じます。
40歳の私への問い
「既存のコンテンツに新しい形を与えていますか?学び続けていますか?」
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今、39歳になった私が想起するシーンがあります。大学院博士課程(経済)で、単位は取りきったものの学位は取らず退学した日の事です。当時の私は「学び続ける姿勢が大事である」と先生から教えてもらったような気がしました。
”生涯、学び続ける姿勢を持つ、その心のありようが大事なのだ。
そう、指導教官が、言外におしえて下さっていたことを、
一生、忘れたくない、そう思うのでした。”
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