毎年、誕生日である8月22日は、一年を振り返り、一年後の自分に向けた問いを発しています。今年は40代に入るということで、十年を振り返り、次の十年後の自分に向けた問いを考えていました。誕生日のブログだけは、社会に開示しつつも、未来の自分に向けて綴ります。
まず、一年単位のもの。
昨年の自分の問い「学び続けていますか?」に対しては、はっきり自信を持ってYES、と言えます。
むしろやや学び過ぎたというぐらい、久々に深く没頭して学習するようなことをしていました。特に、5月6月は、仙台の書斎にこもって製品開発と同時並行して、新しい知見をずいぶん学習しました。その分野の第一人者とされる人に直接会い、指導を受けるに至るような展開をしていました。
これは、アイデアワークという仕事をするうえで、仕事の幅をずいぶん広げてくれました。
一年後の自分への問い、は、十年後の自分への問い、と兼ね、最後の方に記します。
今度は、十年単位のもの。
ここからしばらく、一人語りになります、文体も「だ・である」調と「ですます」調に揺れます。
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1.アイデアプラントは、クリエイティブ・リーダを助ける道具を作る組織
単純に表現すれば、ブレインストーミングの道具を作る組織である。
しかも、その使い手は、万人のだれでも、ではなく、クリエイティブ・リーダーとして、組織や集団を引っ張っていく人々である。
1-1 ”クリエイティブ・リーダー”
現在の役職名が、ということではなく、動き方や、生き方や姿勢のあり方が、クリエイティブ・リーダを規定する。かつ、創造的リーダーというのは、組織内でも大抵は非公式なものであり、そういうものは人事制度で冠することができるものとはやや違う。いつも、自然と皆が彼をそう位置づける。
本業がありつつも、創新に挑んでいる方々。自らが汗をかいて、未踏領域の闇を切り開いていく人の後ろには、人が集まる。何かが作り出されるとき、そこに人の密集が生じるけれど、それは、職場ヒエラルキーのパワーにではなく、熱に集まる。
もちろん、そうした人々の中には、CTO( chief technology officer )への道を駆け上がっていく事もあるし、生涯、現場において、有名無名のプレイヤーを続けることもある。また、組織の中にいるケースばかりではない。地域からいろんなものを生み出し行く地域プロデューサーのような役回りの人もいる。もっと小規模のケースもある。勉強会や新しい活動を企画し、運営していくような人もいる。
平たく言えば、何か新しいことに情熱をもって取り組む人は、殆ど範疇に入る。
1-2 ”ブレインストーミングの道具”
ブレインストーミングの補助道具、は、ブレスターや、アイデアトランプ、といった「製品」を中心にしている。しかし、専門誌やメディアに連載する発想技法についての原稿も、補助道具の一つである。また、アイデアワークショップのプロセスを設計し提供していくことも、その一つである。
プロジェクトなどにおいて、ブレインストーミングのメンバーとして乞われてアイデア生成役として入ることもあるが、それ自体を中心的価値とせず、そうした「ブレストで自由にアイデアを出し始める原体験」を提供することを中心的価値とする。その共通体験がプロジェクトメンバーに生じることで、その後のクリエイティブな展開を引き出す。我々の提供するものは、常に「ブレインストーミングの道具」である、という原点に立ち返って価値や提供物を規定していきたい。
2.道具の作り手も、未踏の闇に進む覚悟を
創造学や認知心理学など、科学的な事実に準拠し続けていこう、という基本姿勢は常に持っておくが、一方で、未踏領域の闇を切り開いていく挑戦者たちの、
「創造的な活動に対して、厳密な論理の段階に至らないような段階の「経験則やコツ」のようなものがあるならば、それを道具にして、目の前に迫る、明日のチャレンジに送り込んでほしい」
という声には、常に向き合っていきたい。
ビジネスの現場では次々と新しいアイデアを出さなくてはいけない。
10年後使える20年後も正しい、と言える「深考」タイプのものも常に意識しつつ、今すぐ効果のある「即効」タイプのものも、作り、世に送り出そう。
我々が、
「科学的に100%正しいとは言えないから、この道具は創らない、世に出さない」
と考えて、手を拱(こまね)いているのは、挑戦するリーダたちに対する不義理をしていることでもある。
間違った道具を渡して迷走にしてほしくないならば、道具開発の腕を研鑽せよ。
そして、その時点のベストの力で生み出せるものは、迷うことなく、世の中に出せ。
それが、これまで、多くの人に与えてもらったもの(知識、教育、経験、開発協力)に、報いることであろう。
3.社会に広く返していく恩がある
エンジ(工学のMOT)とマネジ(経済の経営)の2つの博士課程(ともに単位を取りきって転籍・退学)で人々から受けた高い教育、フェロー時代に頂いた公的人材へのトレーニングや体験、その他もろもろ、自分には多くの恩をいただいた時代がある。
それを何十倍にして社会に返さなければ、いけない。
それが現代のNoblesse Oblige、である。(私見)
現代の日本には、生まれついての高貴な身分(ノブリス)というものは、そぐわない概念だが、努力によって、ある道のプロというレベルにたどり着いたならば、その道を行くプロとしてそこにたどり着くまでにもらった様々な糧に、それをくれた人々に、多くの恩義がある。
決して誰も、たった一人で、何かのプロにはなったりしない。孤独に取り組んだとしても、食事も衣服も、画材や道具や、いろんなものを使う。医療制度も使うし、道路も使う。そういったものがたくさんあって、その時にたどり着いている。ましてや、専門知識は先人たちの知恵の蓄積であり、高度な教育を享受することは直接的、間接的に、人々から、いろんなものをもらっている。
そういう中で、たどり着いたプロには、社会に広く返していくべき恩がある。
私利私欲でものを考えず、損得なしに「あなたしかできない仕事」と言われたら引き受けたい。
4.長く行くには、志しと高収益のバランスがいる
もちろん、人間の一日の時間は有限で、限りがある。また、仕事をするには、さまざまな必要経費もかかる。交通費、部材、道具、外注、もろもろ。
なので、世界中のすべてを幸せにしようという不遜な考えをもったり、継続性がないやり方でいつか破たんするような展開をしてはいけない。
未来の顧客へ誠実であれ。
未来において、時々、あなたのサービスが本当に必要だという人が現れる。その時に、その前につぶれてしまえば、顧客にはサービスができない。長く継続できるように、価値提供の仕方にも、デザインがいる。それを土台として持った上での、私利私欲におぼれるなかれ、という姿勢がいる。
信じた道を長くいくには、ハイ・プロフィットと志し、のバランスがいる。
価値創造の分だけ、或いは、「ありがとうと沢山言われた分だけ」、貨幣が回ってくる。沢山、価値を作り、健全な収益構造を作ることが、志しという器に、中身を沢山入れていくことになる。
沢山儲けて、いっぱい世の中の為に使う。
特に仙台においては、震災後の世界が日常生活と同居している。復興というのは一瞬のファッションではない。震災では遺児孤児も沢山生まれて、地域や社会が多層的に彼らを育む必要がある。沢山の税金、たくさんの私的な資金、そういうものがこれからもずっとずっと、必要で、一企業の中でのバランスだけで、トントンでよいかといえば、違う。天秤の志し側に乗るものは大きい。そのつり合いに向けて、プロフィットを生み出す流れもまた、大きいものがいる。
代表としては、それを作り出し、伸ばし続けることもまた、大きな社会使命の一つと考えよ。
5.有限の時間の中で、多様な形で、社会的価値を提供せよ
志しや、生涯直接会うことのできない潜在的なお客さんへの愛を、具現化するためにも、有限の時間の中で最大限に価値を提供できるように、生み出すものの形やスタイルにも工夫すること。
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40代を展望した時に、40代の終わりごろ、2021年(48歳になるごろ)、長女は大学受験の年で、翌年の49歳になった時には既に家を出ている可能性もあります。ざっくり言えば、家族全員が一緒に暮らせる時間は、残り3000日ぐらい。
50代になってから、余裕ができて、自宅に長くいられるようになってもその時にはすでに娘たちのいない家、かもしれません。その頃の自分にたどり着くまで、充分に、子どもを育てる・家族の時間、というものを楽しみたいし、妻や子どもたちにとって、幸せな家で過ごしたと思えるような日々を作れるよう、努力をしたいと思っています。と言いつつも、やはり旅仕事、出張がち、にはなるでしょうけれど。
それでも、姿勢や心意気としては、そう思いつづけている父でありたい、そう思うのです。
7.最後に。もう少し長い、展望の届く先にある引退までの10,000日
自分の生涯を考えたときに、43歳ぐらいが1つの着地点で、これぐらいまでは全力疾走をしていくつもりでいます。
気が付けばそこまであと1,000日ぐらいのオーダーになりつつあります。
事業からリタイアする時期を想うと、父の体力から推定するに、70歳、あと30年。日数で言えば、365日×3×10≒10,000日ぐらいです。
あと、10,000日たつと、いまのような、事業の現場、現役の中で、自分が直接社会に価値提供できる時期が終わる。
それ以降は、どんなに望めど、いまと同じように、オンタイムで、リアルな価値生成と提供はできない時期になります。
20代の自分には永遠に思えた未来。
30代の自分には少し、人間は老いて終わりがあることを気配で知りました。
40になった今、まだ長い先を思えど、現役引退の日までの想像をするに至る段階に至りました。
そんな流れの中で今思うのは、70で引退する日、「私は、どんな世界の中で、どんな方向を向いて、ゴールテープを切るのだろう。」ということです。
2043年8月22日の70の石井翁は、父の姿とよく似た姿をしているだろうと思います。
多分、元気で、あれこれ企画して、損してもいろいろと、いろんな役回りを買って出ているのだろうと思います。
個人のレベルはそんなところだろうとして、さておき、30年後の未来において世界はどうあるのだろうとも、思います。
20年たつと子どもたちは、いまない職業に半分ぐらいの確率で就くと予測されていますが、その頃のアイデアプラント、というのは、極めてコモディティー化した事業なのか、或いは、創造やアイデアというのは、遠い未来においても、なおも、未踏の闇が深く、人間の試行錯誤であり、その活動を助ける仕事というのが、高い価値の仕事として存続するのか、その点もとても興味があります。
また、世界情勢はこれから、天下泰平を謳歌した日本に厳しい状況を作り出すだろうことも、予想されます。
また、日本は私のいきている間にも、阪神淡路大震災と、東日本大震災を20年スパンで経験し、次の20年、さらに次の20年、大きな自然災害に日本は見舞われていく可能性が高いだろうと思います。このブログを仮に70歳の自分が見たときに、”あれから一発の大きな地震も来なかった”と言える確率は、極めて低いはずです。国難と言えるようなダメージも受けつつ、さらには、人口が長期的に減少していく日本、その影響で、生産力の絶対値もさがり、経済的にシュリンクしていき、アジアの東の端にある島国の一つ、というプレゼンスの継続的な低下を甘んじて受け入れていく中で、それでも、この国はどういう文化や経済の積み上げ方をしているのか、という点も、とても興味があります。
2013年、40歳になった時の私は、30年後を想い、そんなことを考えていました。
以下に長く綴りました。
長期的な展望に立ち、未来の自分に常に立ち返ってほしい、40歳の初心、を、できるだけ文字で、とにかく、編集なしで、この時の思考の香りまで含めて、表現してみました。
そういう役回りを自然とする人が、我々の言う、「クリエイティブ・リーダー」である。
創造学や認知心理学など、科学的な事実に準拠し続けていこう、という基本姿勢は常に持っておくが、一方で、未踏領域の闇を切り開いていく挑戦者たちの、
それが現代のNoblesse Oblige、である。(私見)
6.一年後と十年後の自分への3つの問い
今年の誕生日(8月22日)のブログは、40代の10年の自分への問いかけ、という、長い視座が必要で、かなり長い時間をかけて考えました。
40歳を終える時の自分(2014年8月21日)と、
40代を終える時の自分(2023年8月21日)への3つの問い
6-1. 一つ目の問いについて
この30代の10年を振り返り、最も、自分が情熱をもらった出会い、それは、私の中の”尊敬される企業”のモデル、中村ブレイスさんの訪問でした。。それ以降ずっと、仕事とはこうありたいと思った強い意思があります。それは、「顧客への圧倒的な愛があり、それが製品のフォルムに宿るような仕事」をしたい。と。
中村ブレイスで中村さんにお会いできた時のメモは、いまも、私が迷った時に、よりどころにしてきた大事なものばかりです。40代を終える時の自分が、よりどころにするものがあるとしたら、また違ったもの、あるいは、原典を忘れて自分の言葉として生み出しなおしているかもしれません。でも、その原点はここにある。といつでも戻ってこれるように、この節目にこの言葉を立てておきます。
6-2. 二つ目の問いについて
30代は、商社を卒業し、大学院博士課程に進み、独立行政法人のフェローに登用され、大学発ベンチャーに駐在し、二つ目の博士課程に進み、それらはすべて、アイデアプラントの事業の中核をなす経験として積み上がりました。そして、30代の後半5年間は、アイデアプラントの創業者として、いろんなビジネスパートナーとともに歩んできた日々でした。
30代後半の5年を振り返ると、ちょうど真ん中あたりで、巨大地震(東日本大震災)を、2011年3月11日に仙台で体験し、人々と乗り越えて、生きぬいていく日々を過ごしました。そこで私の役割に予想外の立場が生まれました。ファンドロイド・イースト・ジャパンの初代理事長です。震災後の東北のクリエータやエンジニアに、スマートフォンの開発の仕事を作り出そうとして、まだ強烈な余震の中で、面白法人KAYACさんの連携的な支援もいただき、ファンドロイドが立ち上がりました。2023年の自分から見たときには、「かつてファンドロイドとして立ち上がったそのコミュニティーは、現在の〇〇となっているものだ。懐かしいなぁ」というものかもしれません。
この30代の終わる最後の2年強を、震災からの復興として過ごす中で、自分たちが躍動感を持って、いろんなものを生み出したり変革したりしていくなかで、不遜な気持ちが生まれていなかったか、他人にはわからないけれど、自分の中で、手を抜いた仕事(=完全燃焼とは言えない仕事)をしていたのではないか、と。一日に何役もこなそうとすると、目の前の仕事に全力でぶつかって、その後、倒れるようにしてホテルに戻って眠る、ような仕事の仕方はできない、ということも震災直後の一年はありました。が、そのうちに、そういう仕事スタイルを是とし、道を究めるよりも、過去の資産(身に着けたこと)の中で仕事をしてしまおうとする、怠惰な気持ちが頭をもたげたのが、30代の終わりの自分の中の出来事でした。
今日が人生の最後でも悔いがない日を毎日送りたい。その言葉に偽りがある日を何度か、してしまったのも事実です。
40歳になる前後のワークショップが、人々の目に「いつも以上に、やっている石井」と映ったようですが、創業のころの自分は、毎回そうでした。終わったら、へとへとになるような、そんな仕事の仕方をしていました。
40代の10年間、自分がそういう仕事を、ずっとして、最長不倒距離を、30代の私よりも、更新してくれていたら、と思い、この節目にそれを書きました。
6-3. 三つ目の問いについて
40代の自分に、もっとも問いたい問いは、これです。40代の10年、仕事はますます忙しくなっているでしょう。(そうでなければ、いろいろと、まずいですが、多分、自分が自分である限り、そこは、大丈夫かと。)その中で、今以上に突き当たるものがあるはずです。それは、時間が有限であること。アイデアワークショップのような、直接的に提供できる価値提供の仕方は、30代の終わりごろ、年間50回強のワークショップをする状態で、上限が、うっすら見えています。
有限の時間の中で、出来るだけたくさんの価値を提供する。そのための工夫をする。そういう10年を過ごして50歳にたどり着いてほしいと強く願っています。そういう姿勢を続けない限りは、自分の道を更に極めていくことができないでしょう。多分、性格的に、現状維持だけで拡張性のない数年間を過ごすのはつまらなく感じるはずです。
年間で受けられるワークショップの数を上限いっぱいまで広げたとしても、せいぜい、90回。前後の移動を含めたら180日(=一年の半分)以上、ホテル住まいになりますが、さすがにその辺が、新しい価値を作り出すために時間を取りつつの仕事となれば、限界でしょう。新しい物事を作り出すためには、まとまった勉強をするための時間が必要で、その他にも、ワークショップというのは、設計や打ち合わせの時間もかなり掛かりますので。
だとすると、多様な形で、価値を提供する工夫、とは、何か。それは、ブレスターのように、自分が直接提供できない体験をユーザの懐で展開してくれるアイテム(製品)を作ること。これにより、いまよりももっともっと多くの人に何かを提供しているようになっていたいです。
また、アイデアワークショップにしても、それを、再現しやすいようなアプリや動画やキットの形にして、やりたい人が気軽に出来るようにしたり、或いは、人材育成講座のような形で、アイデアワークショップのできるファシリテータを育成する、という方向性もあるでしょう。
メディアや書籍において、アイデア発想ワークの実践に役立つ記事を沢山書く、というのも、一つの方向としてありかと思います。
時間は有限。その中で、おのずと直接的行動には、いずれ物理的限界が来きますが、それに全て費やして、継続できない状態にする、新しい知見の蓄積がおろそかになる、という状態にしてはいけない、といつも思います。年間に登壇できる回数が52回まで、と仮に自己規定するならば、それを超える分の依頼や要望に対して、効果的な打ち手をさまざまに展開していく、そういう、創造性の発揮をした10年だったと、振り返れると最高だなぁと、40歳になる自分は思います。
6-3.について、言葉を重ねます。
この3つ目については、すこし拡張して、社会における閉塞、自分の中での限界、という、「塞ぐもの」を壊さんとする10年でありたい、そのためには、多くの人が歩ける道を作り、次々と人が入っていけるような、流れを作るべきだ、と考えてもいました。「破塞創流」(ハサイソウリュウ:閉塞を突破し、流れを作り出す:造語です)。
- 「顧客への圧倒的な愛が、製品のフォルムに宿るような仕事をしていますか?」
- 「人々への愛を持って、道を極めていく努力を続けていますか?」
- 「有限の時間の中で、多様な形の形で、社会的価値を提供する工夫をしていますか?」
そういう、創流、という立場に、立っていくのが40代の覚悟の一つかもしれない。そう思います。タイトルの”創流”、は、ここからとりました。
6-4. 四つ目の問いについて(3つの問いに対応しませんが)
”幸せな家庭を描き、自らその実践のために動いていますか?”
これは、私が30歳になった時に立てた4つの指針の一つです。30代の10年を振り返ると、そのための姿勢はあった。でも、家族との時間をゆっくりたくさん取れたかと言えば、年間で100日以上ホテルに泊まり、旅仕事。ひとたび仙台を離れれば、一か月以上戻れず、娘たちの授業参観や発表会に行けないことも多かったです。
(いつか、大人になった娘たちがこのブログを読んだ時に「パパは全然そんなに家庭をかえりみてくれなかったヨー」と言われるのかもしれないけれど、それでも、姿勢としてはそう思っているんだよ。)
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30代の自分には少し、人間は老いて終わりがあることを気配で知りました。
40になった今、まだ長い先を思えど、現役引退の日までの想像をするに至る段階に至りました。
(追記:今年の8月22日のブログは、当日が大忙しだったこともあり、9月1日の21時過ぎにようやく書き上げました。)