
商社にいた時代に夢に向かってやめていく先輩にその場で差し上げて、その後、自分で買いなおしたものなのですが、たぶん、あれから8年ぐらいずっとこのダルマはそばにいました。18日の夜、外から帰り、まっくらな玄関で、なにか小石をけったな、とおもって、気になってみてみると、それが、このダルマでした。きれそうな予兆もなく、落ちたときの音もなく、気が付いたら足元にありました。
ダルマさんに
と背中を押されたような気がしました。
今は書斎の一番いい所に飾ってあります。

- 疲れてくると、会話の力がよわくなる。
- 疲れてくると、判断力が弱くなる。結果、よくない事態への対処が甘くなる。
- 疲れてくると、タクシーとかフライトとかお金で解決しようとして高い方法を選ぶが、それが思い通りにいかないと最悪になる。思い通りにいっても、贅沢を楽しんだりできていない。
- 疲れてくると、心に余裕がなくなる。電車や込み合う場所で会う人がみんな奪い合う敵に思えてくる。
- そういう時は、早くいったんシャワーを浴びに戻れ。
- 疲れと心のギスギスを洗い流せ。

仕事のある部分をサボったとして、そこで、手を抜いたとして、私は一体それで何を手にいれる?今日ぐらい休みたいし休んでも誰も文句を言わないだろう、と、面倒な作業について思う自分がいます。それが面倒なのはなぜか?やりたい仕事の一部ではないのか。熟達していくことと、慣れて手を抜いてしまうことは、全く違う。他の人からは見分けがつかなかったとしても、自分の中のわくわくする子供の心はそれを見て、光のない目で己を見るだろう。そんなことをふと思っていました。知識やノウハウを出し惜しみして、大事にPCの奥底に眠らせたとして、それがいつか何かを生むのか?
そういう生き方をしない限り、いずれどこかに限界が来る。満足は慢心を引き起こす。そうすると最初に枯れるものは、自分自身のキュリアスマインドだ。そして、肯定的心理様式が次いで枯れていき、何を見ても面白くないし他者の成果を見ても取るに足らないものと思える。多くの人々が愛すべき対象から、単に存在する世界の一部に代わる。顧客への圧倒的な愛が、自発的に湧いてくるものから、無理してそう持っていかねばならないという状態、つまり偽りの情熱になる。その先にあるものは、モチベーションの枯渇だ。それでも一定の仕事は技能上できるだろうが、顧客の輝く瞳を覗き込む瞬間はゼロになる。加速度的にその仕事に対して能力が発動されなくなる。才能は立ち止まり、劣化する。肉体の成長が止まっても、いやむしろ劣化を始めても、進み続ける達人の仕事はますます鬼気迫るものがある。肉体の劣化を超える才能の発展が人間には可能。たまたま幸運にも、才能を発露させる高性能のOSを積んでいた人間が、急速に才能を失うプロセスというのは、ただ一つ、怠惰、であろう。
怠惰な心を自由にさせておくというのは、ここまで進んでくる間に、助けてくれた人々(教えてくれ人、機会をくれた人、一緒に作ってきてくれた人)に感謝を欠いたことである。それはとても恐ろしい転落への始まりである。
多くの人を愛する。
愛する人たちを幸せにしたいと強く願い、それを実現する方向に自分の能力をフルに使う。
怠惰が枯らせるものは、愛情。
怠惰が枯らせるものは、才能。
怠惰が枯らせるものは、未来の可能性。



