バックデートで書きます。2011年1月2日に書いています。内容的には、いろんな場面で話したり書いたりしている事と重複しますが、将来、年末と元旦のブログは読み返す記事なので、ここにまとめて書き記します。
2011年、壮絶な年でした。
私たちは、多くのモノも仲間も失いました。
死んだ友人。
遺体があがらない友人の事をどうしても「死んだ」といえず、「戻らない友人」としか言えなかったのですが、震災から8か月たってようやくその仲間のいたコミュニティーで生き残った皆と再開し、気持ちの上で、現実を受け入れられるようになり、「死んだ、亡くなった」と言えるようになりました。でも「亡くなった」という、紋切型の事象では言えず、私なりの親密さを込めて「死んだ」と私は表現しています。荒っぽい表現ですが。
死んじゃった友人たちは、心残りもあったはず。高い志しもありましたから。
それを想うと、どうしようもない気持ちにかられます。
人はいつか死ぬ。友人も何人もそうなった。自分もいつか確実に死ぬ。
だからこそ。
生きてる限りは、命一杯、手を抜かず。愚直に毎日行く。
愛する多くの人々と生きて、人生を謳歌しよう。
そう、思うのです。
私は明日死んでも、割と悔いなし。
今日が一番やりきった、おしまずに。
そういう生き方をしています。
震災後。特に。
未来がもっと明るいものであるようにしよう、
そのなかで、愛する人々ともっと幸せに生きよう。
明日も、明後日も。毎日。地道に行く。
そんな風に、思いました。
3月11日の後、この大災害によって、一度はすべてがお終いか、と本気で思いました。
巨大な余震がひたすら続き、暴力的に家を街を揺さぶり続けます。
まるで戦争中のようです。夜眠る時には
「明日の朝、生きて目が覚められるだろうか」
朝は朝で、上空をずっと旋回している自衛隊のヘリが何機もいる。
特に、震災の晩、街からすべての明かりが消え信号すらも消え、外に出て、周囲の安全を確認しに出た時に見た星空は、人生で見たことのない輝きで「美しい」を通り越して、背中がぞくぞくする「肉眼ではこれまで見たことのない壮大な自然の姿」でした。こわいな、とすら思いました。
そして翌日には、きっと生活は徐々に戻るだろうと思ったものの、電池が切れていくなかで知った、発電所の事故。私は修士時代、理論物理学を専攻していて、放射線の実験も教養の一部としてやっていたのですが、炉の構造ことまでは、詳しく分かりません。ただ、極めて荒っぽい近似をもとに考えると、状況は予断を許さないはずで、いつでも、半径数百キロの強制避難の事態が背中合わせである、ということを感じていました。
仙台で水も電気もないまま三日が過ぎ、備蓄食料がそこを付き始め、神戸の時のようには、行かないと悟りました。防災アイテムの考案プロジェクトをしていた時に、読んでいた本に、「200時間を生き延びろ」つまり、8.3日は、自律的に生き延びるべし、と。今回の被害範囲から、規模の甚大さをみて多分そうなるだろうと考えを切り替えました。
子どもの学校が3月の学期末を終えていなかったので、妻の実家の新潟へ連れて行くかどうかを家族で話し合いながら、8日が過ぎた時点で、水道の復旧の見通しが立たない(電気は3日たった深夜に復旧しました)ので、新潟へしばらく身を寄せることにしました。
久々に、温かいご飯を食べ、新鮮な野菜を食べ、たっぷりお湯の入ったお風呂に入った時の心地よさは、当時のブログにかいていますが、心に強く感じるものがありました。
その、避難中、妻の実家の部屋を一つ借り、「発想を引き出す道具の子供版」をずっとこもって開発していました。再び、事業を再開できるかどうかも分からない時期でしたが、それでも、自分に何かあった時にも、子どもたちに残せるものを残しておきたい、とおもい開発に没頭しました。(これは、形になり、2011年後半、全国のワークショップでテストプレイをへて、2012年の一番最初の新製品になりそうです)
代表や理事や会長ということを務める組織が、実は私には四つあります。2011年を振り返ります。
TRIZ研究会の会長として:
ほぼ機能できなかったのですが、できることは徐々に変わってくるはず。VE協会での創造技法の提供など、技術開発者向けのTRIZの極めて簡単な部分の導入の部分については、アイデアプラントのWSを通じて提供できたかもしれません。徐々にまた、TRIZという知をツールにして世に出すことはできるはずで、アイデアプラントの事業と伴走するような形で展開していきます。
ファイブブリッジの理事として:
これは名ばかりで、申し訳なく。復興の拠点となったファイブブリッジには沢山のリーダが震災前からいました。震災後彼らの活躍は目覚ましいものでした。私なりの地域への貢献は、ファンドロイドにその軸足をおきました。
ファンドロイドの理事長として:
被災地が自立的に復興するには、仕事がいります。ファンドロイドは、震災後に東北のクリエータに(萌芽的なIT産業領域で)仕事を作る組織として、この街のIT団体のリーダたちが組織したものです。ファンドロイドは活動するほどに運営者が増えていく不思議な自主的組織です。楽しく創造的に展開したいというこで、たまたま理事長を務めさてもらいました。
ファンドロイドは、誰かのもちものではありませんし、ましてや理事長のものでもありません。人々が希望の旗を遠くからも見えるように、この地に立てたものです。その旗が倒れないように足元に石が沢山寄せられた。石が増えれば、旗はさらに高くできる、大きくなる。私はその中の一つの石にすぎません。この旗は、より良い形へ変形し、大きい風を一杯にはらんで、人々に更に仕事を作り出す物となるでしょう。
最近参画してくれた運営メンバーはあまり知らないことですが、Fandroidの設立準備チームで、最初にこの旗をたて、引っ張ってきてくれた(転がり始めが一番重い、ファーストギヤ、ですが)のは、TRUNKの舘内さんでした。私はシフトの二段目、彼から継いだバトンをもって、みなと一緒にセカンドギヤ一杯にひっぱってきました。速度の上がり方を見ると、ギヤ比的には、そろそろ、サードにいれる時期が来るでしょう。いずれにしても、発展的に育ち続ける活動であり続けるはずです。
そして、
アイデアプラントの代表として:
この一年。震災後の世界では、創造がとても必要になりました。縮小や喪失のトレンドが加速したことの裏返しでもあります。アイデアプラントが人々に提供できることは、ごく狭い、アイデア創出の支援です。ツールか、ワークか、コンサルティングか。アイデアプラントの代表としての僕の規定する本業は「職人」あるいは「作家」です。「発想ツールを作る作家である」と。ただ、それにはこだわらず(むしろ講演家のように全国を回るのは)、アイデアプラントの志し「
創造的な人や組織が次々と生まれてくる社会を作りたい」、それにかなうものであれば、全てIDEAPLANTの事業領域の範疇だと考えています。秋口からは特に、全国出張が多くて、何週間も仙台に帰ってこれず、という旅の日々でした。それでもうまくできているのは、マグネットデザインやラーニングプロセスや多くの協力をしてくださるパートナーの皆さんのおかげでした。
この一年間を、前向きな視点でつぶさに振り返ってみて、思い浮かんだ言葉はこれです。
『 逆境では普通は会えないような人と縁ができる 』
シェークスピアの言葉ですが、まさにその通りです。
(彼の原文のニュアンスにはすこし含みがありますが)
私たちは、世界中から、物心ともに、支援をしていただきました。頼もしい人とも沢山会いました。有名な人、無名な人。でも、知名度や社会的ステータスなんかは、心の底からどうでもいいことで、その人自体が頼もしい人々。そういう人と沢山会いました。
特に、大きな情熱とクレバーな頭脳をもった人々との出会いが、本当にたくさんありました。
この国は窮地の際に、志士となる人が沢山輩出されますが、突然そうなるわけでもなく元から平時もその下地を持った人はこの国にいっぱいいて、震災後の世界ではその、意思の力が発現して、相乗的にエネルギーとなって、人々を率いていく力となった、と思います。(普段から、そういう文化だといいんですが、日本という国のなかなか、もったいない所ですけれども)
21世紀初頭の日本では、そういう人は、ソーシャルベンチャーやNPO活動に高い確率でいたんだなぁと、のちに歴史を検証する時に言われると思います。
時代がさらに進んで、この国の形が変わるかもししれませんが、それでも、危機的状況がレッドゾーンを超えるとこの国の人々は強烈にイノベーションを突貫工事でやっていくだろう、そんな気がします。311に同席したものとして、この国の礎(いしずえ)にじっと目を凝らし、私はそんな風にも感じました。
終りに:
この一年、正直に言えば、去年は気持ちが喪に服していました。
年末の年賀状を検討する時に、今年は数枚を除いて、出すことをやめました。
新年あけまして、「おめでとう」なんていう気になれない、と。
でも、そうじゃない。やっぱり、正月になれば、めでたい!不思議とそういう気持ちになりました。
2012年の元日、目が覚めて正月特有の朝の光に感じた気持ちです。
心に正直に表現しようとすると、いろいろ説明がややこしいのですが、そういうのもまた、この時点での本当の気持ちです。
もし、友人がこの世界にまだいたならば
” いつまでも、うつむいたって何にも発展しない。走るには顔を上げて。さあ、行って!ほら、どんどん、走った、走った ” と言うだろうな、と、背中にさす新年の陽光の暖かさを感じつつ、思うのでした。
我々は、石ころだらけの道を長くゆく。
だからこそ、楽しく復興したい。
人生を謳歌しながら、皆で幸せになっていきたい。