8月22日。今日は34歳の誕生日。はじめてブログを書いてからちょうど丸三年。
実家の母親に、ノルディックウォークのポールをプレゼントしました。足の負担が減って全身の運動量はむしろ増えるという、ウォーキングにとてもいい道具です。たまには、誕生日を「生んでくれた人へ感謝する日」と考えてみるのもいいですね。
さて、「不安」を無害化するための工夫、について書いてみたいと思います。「現代という不安を生きる」人々への、あるいは自分自身への、メッセージとして。
1.不確実要因(あるいは情報の無いこと)が不安をもたらす。
人間誰しも不安はあります。人間の社会には知らない情報や出来事が沢山あります。生きていくということは、そういう不確実の中で常に何かを選び取っていく(意思決定していく)行為の連続です。それはすなわち、絶対に100%と保障できる選択肢は本質的にない、ということ。
不安の要因は、いくつかあります。まず、「知らないこと」「持っていない情報」というのがあります。加えて更に大きいのは、「未来」です。未来という「不確実な状況」がいつも自分の少し先にあることです。「一年後」はいつでも誰にでも存在します。
2.経営・計画・予測は不確実要因を減らすが、完全には不安の無害化はできない。
未来を不確実な状況たらしめないように、人間はあれこれと努力もします。分析をして未来予測をします。一種の経営という行為をおこなってリソースの最適運用を行い、未来を計画的に作れる段取りもします。沢山勉強したり情報を集めて、極力、意思決定に不確実さがないように努力もします。
しかし、本質的に、未来とはは「まだ起こっていない状況」であり、多かれ少なかれ予想通りにならない可能性を必ず含みます。高い確率でうまくいくように計画された取り組みは、あくまで「高い確率」なだけです。情報収集もそうです。完全に100%の情報を集める、というのは不可能です。人間ができることは「なるべく100%に近づける努力」をすることだけです。
注:経営(あるいは計画性)や情報収集は、決して無駄なことではありません。むしろ必要なことです。不確実な要因をゼロには出来ないけれど、確度を上げることはできます。ここで言いたいのは、不安というものへの対処においては、計画をどれほど几帳面にしても、本質的に不安はぬぐい切れない、ということです。
3.不安の暴動は、誰にでも起こりうる。
人によって不確実性に対する受け止め方が結構違います。また、自分の置かれている状況、立場、直前の出来事、などによっても、不安を感じる感じ方は、大きく変化したりもします。誰しも不安になることは、やはりあると思います。
では、どうするか?
不安に対抗する充分に強い敵、つまり「不安の天敵」を心の中に飼って置くことで、不意に暴れだす不安に、とっさに抵抗が出来ます。
それは何か?
それは
「覚悟」だ考えています。言い換えると、不安の暴動を制するのは、本人の心の有り様、意識の持っていき方だ、と思います。
覚悟という心のありようは、気概、気迫といったものを醸し出します。また、成功失敗五分五分の際に、意思決定しなければならない、そんなときに、えいっと決めて腹を括ることが出来ます。覚悟を決めて、あとは力強くその打ち手を実行することが出来ます。
人間は弱いものです。どんなによい考え方をしていても、計画性があっても、内外の様々な要因によって、一時的に、心の壁の一部が弱くなるときがあります。それは不意に起こります。一晩寝て、立て直せる人は幸運です。往々にしてそういうことは、嵐のような中でおこるので、そのもろい部分に物がぶつかったり、攻撃をかけられたら、普段は防げたレベルのものにもろくも崩れる。そんなことがあります。
そういうエマージェンシーのときに、直ぐにさっと、もろくなった心の壁を補強して、そこから崩れるのを回避するための、お守りとなるようなものを持っている必要があります。
私はそれが「覚悟」というものだと思います。不安は突如暴れだし、もろくなった心は簡単に崩れる。なので、いつでも心に「不安」の天敵である「覚悟」をかっていれば、いつ暴れだしても、
心の壁がもろくなる前に、「覚悟」が「不安」の暴動を制圧するでしょう。強い覚悟を持っていればいるほど、強い不安が発生したときに、防御装置となるでしょう。
不安に心がもろくなりそうだ、と感じたときには、丹田(下っ腹)にぐっと力を入れて、覚悟に意識を注ぎ、心を強くする。そのために普段から覚悟をもって生きていたい、そう思います。
追記:一年後の私へ。
私は、一年後に誕生日のこの日記を振り返るでしょう。これまでそうしてたように。
35歳の石井は、覚悟を持って生きていますか?
posted by 石井力重 at 23:24
|
Comment(1)
|
TrackBack(1)
|
8月22日